三   善(ミ シ)

解説

中古以来の大族にして数流あり。

分派氏族

 

1,応神天皇裔 「応神天皇十三世孫 市序(始めて錦部姓を賜う)、三世孫

       伊予守克興(三善と改む)、孫 氏吉(淡路守)−清行(参議・文章博士、

       延喜十八年卒、七十二)−文江(早世)、弟 二男 文明、弟 六男 連衡(康信の祖)

八男 浄蔵貴所、弟 日蔵( 高穂)」と。

2,越中の三善氏 元亨釈書巻十七に「算学博士 三善為康は、越中国射水郡の人、

       治暦二年云々」とあり。本姓 射水氏、三善為長に学び堀河天皇の時、

       算学博士、三善姓を賜う。朝野群載を編す。

3,石見の三善氏 邑智郡天津神社 文永三年八月棟札に「奉再造立、天津社本座

       大明神、大願主 三善清連」とあり。当国 佐波氏は、この族にして、

       浄蔵貴所五世孫 善連の裔 その男 清連(善四郎、文安五年卒)なり。

4,備後の三善氏 − − 第8項の康信、当国の地頭でもあり。この支族もあらん。

東鑑、承元二年三月條に「備後国大田庄 地頭 大夫属入道(三善康信の事)」とあり。

太平記に「備後国には、江田、弘澤、宮、三善」とあり。

5,安芸の三善氏 − − 厳島田所文書に「庁宣、田所、大帳所、惣判官代 三善兼信。右の人、

祖父 信織の譲状に任せ、田所執事に補任する 件の如し。寛治五年四月、大介 藤原朝臣」とあり。

6,伊予の三善氏 − − 宇和郡高田八幡宮 徳治二年九月の寄進状に「右馬助三善朝臣散位」とあり。

又、予章記に「京都より善家の者進止せらる事、誠に無念の次第なり。善三島と云うは、

飯尾の末葉なり」と。

7,筑後の三善氏 − − 三善清行の遠孫 問注所の康行、正和二年 鎌倉より下向して生葉郡を領す。

その子孫も あらん。

8,鎌倉幕臣 清行の後裔 康信、頼朝に従いて、問注所執事となり、子孫栄える。

       東鑑巻一、治承四年六月十九日條に「散位康信の使者 北條に参着する也。

頼朝 閑所に於いて対面し給う。この康信の母は 頼朝の乳母の妹なり      

       彼の好みによりて、その志、偏に源家に在り。山河を陵て、毎月个度(

       一旬各一度)使者を進め、洛中の子細を申す。而して、今、源家を追討

       せらるべき由の事、殊に重事たるにより、弟 康清(所労と称して出仕を

       止む)を語らい着進する所なり云々。二十二()日癸卯、康清帰洛。

       頼朝、委細の御書を遣わし、康信の功を感仰せらる。大和判官代邦道、

       右筆、又 御筆、並びに御判を加えらる云々」とあり。系図は

       「康信┬康俊(加賀守)−康持−政康
          ├康連−康宗−信連−資連
          └行倫−倫重
(対馬守)−倫長」。

9,算家 代々算博士なり。職原抄に「算博士二人、算道の極官なり。算道は 三善氏、これを伝う。

よって一人は必ずその家儒を用いるなり。今一人は小槻氏 之に任ず。善家は算術を習うなり。

小槻氏は、諸国調賦の算勘の為にその職に居る、云々。算道は当初 尤も微々たり。而るに

       三善雅衡、権貴に属してその家を起こせり。子孫、六位蔵人に補す。遠衡、朝衡に至っては

昇殿を許さる」と。

10,他


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