三   宅(ミヤケ)

解説

屯倉(ミヤケ)より起こりしにて、古今に渡り大族なり

大昔、各地に有りし国の官庁や倉庫をさし、転じて、その地

そこで働く役人、農民、長をミヤケと云いしなり。

三宅は それらに因むか、地名により 起る。

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす

分派氏族

 

大和の三宅氏− 宇智郡栄山寺文書、正暦三年、十二月二十一日符に「検大掾判官代

       三宅(花押)」と。

       又、宇陀郡宇多水分神社縁記に「永禄庚申歳九月、玉岡社司、三宅尾嗣」

       などとあり。

難波三宅氏 当地に三宅吉士、三宅連、三宅忌寸、及び三宅人などありて、

       「難波三宅」と、正倉院宝亀二年文書にあり。大嘗會の時の吉志舞に、

安倍氏が吉志、大国、三宅、日下部、難波などの氏を率いて舞う事、

       北山抄にあり。

       又、後世、浪華の画家に三宅英齋あり。

1,河内の三宅氏 延元の頃、楠氏に従いし士に三宅源内兵衛あり。

       又、永禄二年、交野郡侍連名帳に「津田村。三宅刑部少輔重仲」と。

2,山城の三宅氏− −天正十年、明智光秀謀叛するや、その将 三宅綱朝を勝龍寺城に

       おき、西国の通路を塞ぐ。六月十三日の戦い、光秀破れ、綱朝自殺す。

3,摂津の三宅氏− 当国島下郡に三宅村あり、吉師部と共に難波三宅に奉しせし三宅氏

       のありし地なり。後世、三宅村太中に三宅城あり、三宅氏世々拠る。

       天文年間、三宅出羽守国村、細川氏綱に組し、その十六年二月三好長慶

       に攻められ、三月二十二日降る。この三宅氏も、古代三宅氏の裔ならん。

       味舌峰前寺永正元年、不動像識に「飛騨守三宅国英」なるものあり、

       三宅国村は、その裔なり。

4,和泉の三宅氏 大鳥郡の名族なり。三宅十五郎と云う人、その父 五郎三郎の

       長わずらいを治さんと断食潔斎して、住吉神社を祈る。霊夢ありて、

       無量寿仏を拝せしに、父の病平癒す。よって伽藍七堂、支院十二宇を

       建立す。北朝の光明院は、山号を勅定、寺名を引接と号せしめ給う。

       又、後に、堺 五奉行の一にこの氏あり、その男 三宅寄齋島は、儒者

       として名高く、後陽成、後水尾、両帝に侍講し奉る。

5,播磨の三宅氏 飾麿三宅より起こり、天日槍の裔と伝えられる。永承二年、

       三宅朝臣光平、当国少掾に任ぜられると。

       又、江戸初期、黒田家臣に三宅家義あり、

       又、明石の人、三宅儀左衛門重固は、儒者として名高し。

6,美作の三宅氏 流江安室記に三宅助兵衛、川端氏所蔵文書に三宅十右衛門

       など見え、又、勝北郡小吉野庄 小畑村庄屋に三宅十右衛門、

       又、勝間田の三宅氏は、百五十六旧家の一なり。

7,備前の三宅氏 児島屯倉の職員の後なり。この屯倉は、欽明紀十七年條に

       「蘇我大臣稲目宿禰などを備前児島郡に遣わして、屯倉を置き、葛城山

       田直端子を以って、田令となす」と載せ、後、敏達紀十二年條に

       「日羅等、行て吉備児島屯倉に至る」などとあり。

       又、太平記に三宅三郎高徳 あり。家紋 輪宝。

8,佐々木氏族 「宇多源氏にして、児島の高徳の末流なり」と云う。

       家紋 輪宝、三星、右巴、桐、菊、四目結。これは、佐々木盛綱の嫡孫

       重範、三宅の家を相続し、高徳はその四代の孫なり。との説による。

9,備中の三宅氏 永正の頃、連島の城主に三宅和泉守国秀あり、その十二年、

       琉球を取らんと欲し薩摩坊の津に至りしが、島津忠隆に破られて兵船を

       焼かれる。

       又、浅口郡西浦の豪家にこの氏あり、高徳の裔と云う。

10,赤松氏族 これも備中浅口郡の名族にして、長尾村 三宅賢一氏所蔵文書に

       「人皇六十二代 村上天皇の御子 具平親王と申し奉れる親王の御子を

       師房と云う。師房より八代目を季房と云う。播磨赤松の荘を賜いて居す。

       よって赤松氏を称す。季房より十五代目を長治と云う。長治は別所氏を

       称す、小三郎、刑部少輔と云う。長治は播州 三木城主となる。秀吉に

       攻められ、自殺、落城す。その子 定治、家臣と共に逃れて、阿波国

       阿波郡柿原村に住し、三宅氏を称す。天正五年、当家の一族集会して

       典儀を採聚し、先祖代々の系図、記録、旧記などを、臣 小林一学を

       して撮毛謄写せしめ、以って諸を後裔に伝えるもの也。家紋 三つ巴。

       添紋 菱、二重角。幕紋 三ッ引両、馬印、同。

       初代 三宅定治−治郎兵衛−五兵衛−與三右衛門−五兵衛−次五右衛門

       −五兵衛(役人 帯刀御免)−治郎兵衛(当代より徳島侯に奉仕、妻

       森平作の娘、この姉、御殿に上り大守様を生み奉る)」と。

       後、備中に移る。

11,湯氏族 − − これも安芸の名族にして、若狭国の湯大膳の裔孫、佐伯郡の三宅村に

住して 三宅玄蕃と称す。その男 主計、武田氏に従う。

12,安芸の三宅氏 − − 芸藩通志 安芸郡府中村 三宅氏條に「先祖 三宅新左衛門胤信は、

村の城主 白井備中の家人たり。その子 兵部丞就世、毛利家に仕え、後、

仕を辞して医者となる。その子 弥右衛門就祐より世々 里正となる」とあり。

又、高宮郡可部町の三宅氏條に「三宅某、熊谷氏に従い来りて、三入庄に居る。

寛正の頃、勘兵衛致仕し、鎔冶を業として可部に移る。家譜焼亡して

古きこと伝わらず」とあり。

後世、広島藩医に三宅西涯あり、その男 董庵、共に名あり。

13,周防の三宅氏 延喜の玖珂郷戸籍に「三宅継支、付伊宝戸主 三家兄男戸」とあり。

       又、後世、当国の三宅氏に、丸に梅鉢を家紋とする家あり。

14,出雲の三宅氏 − − 石見志に「邑智郡矢上村の熊ヶ頭城主 三宅筑前守勝貞、足利尊氏の

裔と称すれども信じ難し。延文三年、石見二千貫を賜り、来りて城を築く。その男

勝直、永享三年卒、妻 中村山城守の娘」とあり。

15,筑前の三宅氏 − − 帝王秘記に「延喜十六年の大宰府解に『早良郡司 三宅春則』」とあり。

この三宅氏は、阿蘇神の末孫として伝えられる。比伊郷片江村に阿蘇神社あり。

16,河野氏族 伊予の名族にして、河野系図に

       「得能冠者通俊−通秀−信綱(三宅十郎)、弟 通方(三宅七郎)」とあり

       て、南北朝の頃、宮方に属して忠勤す。

       又、後世、河野系図に「通直−晴通−通宣(三宅惣左衛門)」とあり。

       又、明治海軍大軍医に三宅貞造あり、日清戦争に死す。

17,清和源氏新田氏族 − − 丹後国丹波郡の名族にして、神戸城(河辺村)は、

三宅美作守の居城なり。伝え云う「この三宅氏は、新田義貞の末流と云い、

越前国に有りけるを一色松丸に随従して神戸城の城主となれり」と。

18,加賀の三宅氏 − − 江戸時代、油屋、車屋と称す三宅氏あり、家紋、抱茗荷。

又、加賀藩給帳に「四百五十石(紋、丸に抱柊<ヒイラギ>)三宅平太郎」とあり。

又、幕末、勤王家に三宅恒(立軒)あり。

19,能登の三宅氏 − − 当国の名族にして、弘治三年、三宅備後は、温井備中と共に

二宮より進みて、福水城に陣す。

又、天正七年、温井景隆、三宅長盛、上杉謙信の死に乗じ、轡田を欺いて

松白へ引き出し、平子を急襲して、平子を殺す。

三州志、鹿嶋郡七尾城條に「天正七年、温井景隆、三宅長盛、逆威を振るい、

有坂を攻めて その城を奪えり。八年、長連龍、温井、三宅と金丸菱脇に戦い、

勝ちによりて、三宅 潜行し、安土に抵りて その城を信長公に献じ、罪状を

陳謝する故、温井、三宅、姑く死首を続けて、又、この城に居し、九年、温井、

三宅、菅屋長頼に阿腴し、礼遇を厚くして その城を渡し、各々石動山に登る」と。

又、「鳳至郡の崎山城は宇出津村領にあり、三宅小三郎居たり。この小三郎は、

三宅備後の別家なり」と。

20,越中の三宅氏 三州志、礪波郡に「道坪野城は、宮島郷道坪野村領に有り。

       三宅新左衛門拠ると云う。長盛の族か。安楽寺砦には、里談に、天文中、

       高橋則秋、石黒左近将監と争い野幸村にて撃死す」とあり。

21,越後の三宅氏 − − 当国古志郡に三宅神社あり、又、古代、三宅連あり。

古代の三宅連の子孫もあらん。又、神社を縁として苗字とするものもあらん。

延暦三年十月記に「蒲原郡の人、三宅連笠雄麻呂、稲 十万束を蓄え、積みて

よく施し、寒き者には、衣を与え、飢える者には 食を与う。兼ねて以って

道橋を修造し、艱険を済利し、行を積む事、年を経たり。誠に挙用に合う。

従八位上を与う」と。

又、後世 古志郡に三宅城(三宅村)あり、三宅氏の居城と云う。この三宅氏は、

古代の三宅氏の後裔にて、明応六年の越後国検地帳に三宅出雲守とあり。

22,滋野姓− −ェ政系譜に「家伝に根津小次郎直家の後にして、後、三宅に改むと云う。直之−直久

−直茂−直栄−直年−直温、家紋、丸に二本立鷹羽、月の輪。

23,伊豆の三宅氏 − − 伊豆七島の一つに三宅島あり、この島名を名乗りしもあらん。

24,遠江の三宅氏 当国の有玉郡に三宅郷、引佐郡に三宅神社あり、この地より

       起りしもあらん。

       後世、天野景泰の配下の武士に三宅左衛門三郎 あり。

25,三河の三宅氏 − − ェ政呈譜に「三宅児島三郎高徳、備前国を出でて 伊勢国に来り、

その後 三河国賀茂郡に移り、上伊保、下伊保、伊保土、篠原等を領す。その裔

隼人正師貞(梅坪領主、天文十六年戦死)−藤左衛門政貞−惣右衛門康貞−越後守康信」とあり。

26,三宅侯 ェ政系譜に

  藤左衛門尉政貞┬惣右衛門尉康貞−越後守康信−康盛−康勝−康雄−康徳−康高=康之−康武−康邦−康友−康和−康明=康直=康保−康寧 三河田原一万二千石 家紋 輪宝、島形の内に兒の字、 明治 子爵
         └彌二兵衛正次、武蔵・指扇の地五千石を給う。

27,秀郷流藤原姓 − − 深津氏の裔なり。小右衛門正通の男 権大夫正永、外家の号を称す。

家紋、輪宝、島形の内に兒の字。

28,源姓 − − 京都の人 三宅石庵正名は、儒者にして俳諧を善くす。その男 正誼なり。

又、石庵の弟 九十郎緝明は、有名な観瀾にして水戸光圀に仕え、後、幕臣となる。

ェ政系譜に「九十郎緝明−岩次郎済美、弟 十左衛門敬直−恒五郎守典。家紋、丸に三菱、丸に玉文字」と。

29,秀郷流藤原姓 河村氏の族なれど、右衛門昌勝 外家の号を称す。家紋 輪宝、五三桐、車。

30,醍醐源氏 − − 家伝に「源播磨守允明(醍醐天皇の第十八皇子)の末にて、近江国の住人

與五郎貞房を祖とす」と。家紋、八剣輪宝、丸に三文字。ェ政系譜に

「貞房−源助貞勝(三河にて家康に仕う)−玄蕃頭正勝」と。

31,佐々木氏族 − − 近江の名族にして、野洲郡市三宅城(市三宅村)は、三宅出雲守孝房の城跡なり。

この流は 佐々木六代 経方の四男 永原家行の二十代の後胤、永原大炊頭実高の次男

大学助賢宗より出づ。その長男 孝房にして、観音城 落城の時、滅亡す。

32,槙野氏族 伊勢の名族にして、奄芸郡三宅村より起こる。肥後山鹿の士 槙野秀盛、

当地に来り、三宅城を築きて三宅駿河守と称す。その四代の孫 藤重、

永禄十二年、織田氏の為に破られて亡ぶ(名勝志)

       又、三国地志には「三宅堡、三宅駿河守居守、その男 権左衛門継いで守る」と。

       又、勢州四家記に「三宅権右衛門を三七に附けらる」とあり。

33,他 


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