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宮 地(ミヤジ・ミヤチ) |
解説 |
甲斐、三河、美濃、飛騨、土佐、筑前、肥後などにこの地名あり。 国土基本地図に60ヶ所あり。 |
1、美作の宮地氏 − − 当国勝田郡福力村の名族に存す。
ェ永の頃、奉行に宮地惣(宗)右衛門、
津山藩分限帳に「三十七俵 宮地東伯、六十石 宮地季祐」とあり。
2、大江姓 − − 備後の名族なり。
院島金蓮寺 文安六年の棟札に「願主 (宮地)沙弥明光、子息 宮地大炊助大江資広」とあり。
又、芸藩通志 御調郡城跡條に「鳴瀧山は、吉和村にあり、宮地兵部太郎広義、同
兵部次郎広俊の所居。探題山とも云う。後、兵部大輔弘躬に至り、木頃氏に討たれ城
落ちる」と。
又「水迫は 同村にあり。宮地宮内の所居、宮内は 木梨城主、船奉行なりしと云う」とあり。
3、宮道姓(後に藤原姓) − − 土佐の名族なり。伝え云う「藤原姓、故ありて菅原に改む。宮地氏
又、宮道。紋は、山形に三つ引、八つ山形に三つ引、云々、家伝に云う、家祖 その先は
京都に出づ。山科二社の後裔と云う。土佐国に遷る」とぞ。
天満宮本殿唐破風記に「延喜三年二月、菅大臣(菅原道真)、西府に於いて薨ず。随臣
松木春彦、公の遺物 大刀一振りを携え、高視朝臣に伝えんと当国に下る、云々。
宮地茂盛は、八大竜王宮の大夫、高視朝臣に仕う。遺物を以って公の霊璽とし、竜王宮の
相殿に安鎮す(延喜七年二月)。久安四年正月に至り、天神大夫宮道高基、公の霊代を
中央に置き、永仁三年、大夫勝村、病気、嗣子 大夫茂正、正安二年、父子共に死して
同苗 助大夫 相続す(以上抜粋)。応永四年三月九日、二の大夫 徳麿これを誌す」とあり。
系図は「宮道高基(久安五年)−正道−道正−勝村−茂正−正明−助義(宮地に改む)
−勝明(正長二年 遷京都)−久平盛正(永正元年 京都より再び土佐に帰る)−久右衛門正治
−右衛門尉勝重−若左衛門正勝−平兵衛尉正重−八郎右衛門貞次−丹後守直行−同正直
−上総正重住」。
又、視聴記に「宮地五郎左衛門は、長曾我部氏に仕え 四町五反を領し 慶長五年より
山内家に仕え、一町五反を領し、下郡奉行たり」とあり。
又、山内藩儒に宮地藤弥太介行あり、谷門下にして静軒と号す。その二男 喜八郎春樹は、
為斎と号し、その男 荘蔵仲枝は、水渓と号す、皆 名あり。
又、安芸郡浮津村の庄屋 宮地武右衛門は、捕鯨家としても名あり。
又、幕末、高岡郡須崎下分村の士 宮地孫市利渉は、勤王家として知られ従五位を賜る。
4、他
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