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宮 川(ミヤガワ) |
解説 |
若狭 越後に宮河庄あり、その他
山城 伊勢
下総 近江
飛騨 信濃 岩代
若狭 美作などに此の地名あり。 青森県弘前市、神奈川県三浦市、静岡県静岡市、同 伊東市 同 島田市、愛知県津島市、兵庫県芦屋市、鳥取県倉吉市、 愛媛県伊予三島市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,筑後の宮川氏 − − 当国に多し。田中久兵衛吉政の長臣に宮川讃岐守あり、慶長
六年より城島館に拠る。田中家臣知行割帳に「(三瀦郡城島城に居す)
六千八百石(組頭)宮川十丸、百五十石 宮川六兵衛、四百八十石 宮川
與右衛門、三百五十石 宮川源大夫、二百石 宮川新兵衛、二千八十石
宮川龍八、千五百石 宮川理左衛門、三百石 宮川又八郎、二百石 宮川
権六、五百石 宮川伝右衛門、鉄砲頭六百石
宮川彦左衛門」などあり。
2,多々良姓 − − 周防の宮川氏にして、大内氏に仕え、後、陶氏に従う。陶晴賢の
家臣 宮川房勝は、その主の謀叛を諌めて自殺す。
又、天文二十二年六月、宮川甲斐守は、防州山代の兵を募り、芸州
佐西郡に出でて、毛利氏と戦い戦死す。
3,美作の宮川氏 − − 当国真庭郡下河内の名族なり。上記の裔 弘治元年、陶氏 滅亡するや
兄弟三人、高田城主 三浦氏に仕え、末弟 与太郎当弘は、中村大炊之助頼宗、
後に宇喜多氏に属すと云う。
4,平姓 − − 江戸幕臣にして、ェ政系譜に「彦左衛門政明−定治(宝永元年、家宣 西城に入らせたまうの時、
従い奉り 御家人に列す)−定殻−定之−定就−定覚、家紋 丸に鱗、五三桐、揚羽蝶」と。
5,源姓 −
− 美濃の名族にして、安八郡木戸村「宮川八左衛門は、大垣の城主
宮川左衛門佐安定の弟にて、
木戸村に住す」と。
多芸郡條に「宮川伊勢守安照は、大垣の城主 宮川吉左衛門源安定の子にて、
信長、信忠、秀吉、秀次の四公に歴仕せしが、秀次事ありし後、流浪して、
ここに蟄居す。その子 與右衛門も信長公に仕え、秀次生害の後、父と共に
ここに住めり。その弟 圓慶は、当村 宝光院二世の住僧なり」と。
又、「上笠村、上笠古城は、永禄の頃、宮川権之助安済の居城なり。
これ宮川吉左衛門安定の一族なりし」と云う。
6,清和源氏 − − 為義流にして、初め宗戸氏を称すと云う。家紋 丸に洲浜、丸に鱗。
幕臣にあり。
7,若狭の宮川氏 − − 遠敷郡宮川庄より起こる。百合文書、建久七年の源平両家
祇候輩交名に「宮河権守頼定、宮河武者所後家勝原氏」などとあり。
8,清和源氏武田氏族 − − これも若狭宮川より起こる。
同地新保山に武田中務元度の城跡あり。
諸家系図纂に「大膳大夫元信−信X(号 宮川五郎)」とあり。
又、江戸時代、小浜の兵学者に宮川忍齋あり。
9,越後の宮河氏 − − 当国刈羽郡に宮河の庄あり、この地名を名乗りしもあらん。
10,道公姓 − − 越中国射水郡の名族にして、式内道神社は、郡内の作道村にありて、
道公の祖 彦屋主男心命を祀り、神裔、今尚祀り事を行い、宮川氏を称すと云う。
11,滋野姓 − − 信濃国諏訪郡の宮川村より起りしか。
海野幸恒の後裔にして、幸重を祖とすと云う。
12,藤原姓 − − 幕臣にして、ェ政系譜に
「宮河氏。次郎右衛門孝乘(桜田館に仕う)−孝受−信安−邑定(明和六年、家治にまみえ奉り、
天明七年、御勘定となる)=邑忠、家紋、井筒、九枚笹」と。
13,奥州の宮川氏 − − 新編会津風土記、河沼郡佐野村條に「稲荷神社神職
宮川和泉、その名を常行と言う、安永中より この社の神職となる」と。
又、磐城国窪田村の名族にあり、藤原姓にして、家紋、違い扇なりと。
14,桓武平氏関氏族 − − 伊勢国鈴鹿郡の宮川村より起り、宮川館に拠る。
関左近将監盛氏(忠業の二男)の後なり。
系図は「盛氏−盛康(蔵人太夫、一に盛定、宮川氏の祖)−盛家(大和守)
−盛教(大和守)−盛純(大和守)−盛俊(紀伊守、浅野家に仕えて五千石を領す)
−盛広(十左衛門、母の姓 西川氏を称す)−(八代略)−康叙(文之助、領三百八十石余、
本姓 宮川に復す)−康重(文之助)なり。家紋、揚羽蝶、替え紋、丸に鳩酸草」と。
15,橘姓 − − これも伊勢の名族にして、ェ政の頃、久居藩士 宮川保永の五男に宮川春暉(恵風)あり、
医師にして、橘南谿と号す。日本で最初の解剖術に関する書物『解体運刀法』を記す。
近代医学の先駆者なり。
16,尾張の宮川氏 − − 当国宮川村より起こる。宮川長左衛門長春は、大和絵の
名手にして、春旭堂と号し、その男 藤四郎春水に至り、勝川氏に改む。
春章など名高し。
17,他
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