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三 浦(ミウラ) |
解説 |
御浦に同じ、相模に三浦郡あり、その他 伊予などに此の 地名あり。 埼玉県浦和市、石川県金沢市、同 松任市、岡山県津山市 長崎県佐世保市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,桓武平氏 − − 相模国発祥の名族にして、三浦の郡名より名乗る。尊卑分脈に
高望王┬良文 |
2,相模の三浦氏− − 始め 平太郎為継、源義家に従い、奥州に赴く。その子 義継は、
相模介に任じられ、その子 義明は、大介と称し、治承四年、源氏の起
こるや一族を率いて兵を挙げて、これに応じ、衣笠城に戦死す。子孫
鎌倉府に顕達し、多いに栄え はびこり、諸州に散布す。東鑑に「義明、
天冶以来、相模国の雑事に相交わるにより、右大将家(源頼朝)の御時、
検断の事、同じく沙汰すべき旨あり。義澄これを承る」とありて、当国
守護の職にも関与し、義澄 義村 相伝して、三浦介の号を継ぎ、当郡を
領地す。而して一族繁茂、各地の在名を称し、世に三浦党と云う。建武
元年、三浦党の和田義盛以下戦死し(義盛の乱)、宝治元年、総領三浦
泰村以下 叉敗死す。三浦党 佐原氏、遠江守盛連の一族のみこの難に組
せず、よって盛連の男 五郎左衛門尉盛時、三浦介の徽号を継ぐ。元弘
の乱に三浦介高継、北條氏の無道を怒りて帰順し(後醍醐天皇に)、
大介職以下、前代の旧領を安堵す。その後、足利氏の起こるや、これに
属し、以後 鎌倉管領に隷属す。系図は三浦系図に
忠通−為通(平大夫、長門守、始めて三浦と号す)−為継┬義明(大介)―――┐ |
見聞諸家紋に、「三引両」。又、紋譜帳に
「三浦大介義明 丸に三引龍、三浦義澄 釘抜、三浦義村
松皮菱」と。
3,泰村(若狭守)以後の宗家 − −
系図は
義連(佐原十郎)−盛連−盛時(三浦介)┬重連−盛家 |
4,駿河の三浦氏 − − 家譜に「駿河守義村−朝村−朝信−朝久(四郎左衛門尉)−宗久(太郎左衛門尉)
−高久(遠江守)−範永(隠岐守)−範高(次郎左衛門尉)−範時(上総介)−氏俊(次郎左衛門、
三休。今川氏真に仕う、後、武田、北條、更に家康に属す)−儀持(助左衛門)」と。
子孫、幕臣、家紋、丸に三引、松皮菱、横三引。
又、「範時の長男 正勝(雅楽助、義元の家臣)−半左衛門正次(五百石)−十右衛門正定、
弟 八兵衛正之。家紋、丸に横三引、丸に梅花」と。
5,幕臣三浦氏 − − ェ政系譜に「三浦五郎左衛門義周、家紋、三引、釘抜、松皮菱」と。
6,上総の三浦氏 − − 管窺武鑑に「天正三年、蟻木城主椎津中務少輔は、北條よりの計策に入り、里見家に対し、
逆意の事顕われ、佐貫城主 三浦下野守成良、大将として攻め寄せ落城す」とあり。
又、或る本に「里見二代義弘も佐貫より、房州岡本の城へ御移りなされし故、即ち、
佐貫の城をば下野守為成に預け下され、孫 良俊の代まで佐貫居城也。天正十八年、里見衆、
房州一国につぼみ、三浦良俊もホリコメと云う所を居館とす」と。
7,味知氏族 − − 味知(アジチ)先祖書に「味知雅楽之助の男
三浦半左衛門、同 新助、
味知喜平次の次子 三浦八兵衛」とあり。
8,常陸の三浦氏 − − 新編国志に「三浦、相模。佐竹譜、戸村本、谷田村本に佐竹昌義に従って下向
諸氏の内なり、源氏とあり、常陸源氏系図には平氏とあり。三浦を称する時は、平氏とするもの
是に似たり。後、久慈郡野上にいて、野上を称するものは三浦なりと云えり」と。
9,安房の三浦氏 − − 房総里見誌に「三浦」志摩守(名乗り不明、この人 永く里見の御味方して、後代
三浦郡を討取り給う時、守護に置き給うか)と云う侍、相州より渡り来れり、軍兵三百人具せり。
三浦大輔義明の末孫なり」とあり。
10,岩代の三浦氏 − − 鎌倉時代 三浦十郎左衛門尉義連、会津に封じられ、三浦
または佐原と称す。以下 芦名氏参照。一族甚だ多し。新編風土記 会津
郡天満村條に「十二天満社、久寿二年三浦大介義明建立すと相伝う」と。
又、小田村に葦名三浦介盛隆の墓存すとぞ。
又、三城潟村條に「三浦経連 始めて猪苗代に来たりし時、その子 経泰、
赤房、義泰の三人を連れ来たり、ここに三館を築き住せし故、今の名に
改めし」と載せ、
又 大沼郡砂子原村條に「熊野宮、神職 三浦大隅、延宝四年、日向重久
と云う者、当社の神職となる。今の大隅重雄は、五世の孫なり」と云い、
耶麻郡荒分村條に「館跡、三浦左七直成、居りしと云い伝う」と。
又、岩瀬 伊達地方にも在りと云う。
11,陸奥の三浦氏− − 建武二年九月文書に「三浦介平高継が勲功賞として、糠部内
五戸を賜り」たる事見え、又、南部文書 大蔵権少輔清高状に「当郡
三浦介入道云々」と。下って八戸家臣に三浦安右衛門あり。
12,出羽の三浦氏 − − 柞山誌に「浦大町、浦横町は、元 一村にして、高嶽神社の
辺に古城あり。城主を三浦五郎義包と云い、秋田実季の幕下なり。義包
の叔父 三浦九郎、南部へ一味しければ、実季これを撃ち 二人共に死す。
一説に、三浦兵庫盛永(一説に盛家)は、湊九郎に一味、檜山殿に逆ら
い自害す。その子 義包は、享禄二年、歳七つ、坂田の湊まで落ち、
愛季公へ罪を謝し、男鹿の内 旧地 三百町賜り、即ち押切へ還住しける
に、また謀叛を企つとの疑にて、天文九年、秋田家より殺さる」と。
又、郡村記に「一日市は、家居 二百戸。青原寺 禅宗、浦大町の城主
三浦兵庫頭盛永の菩提所とぞ。盛永、天正中、檜山の大高相模守に殺され、
その子 五郎盛末 押切に居る。即ち一日市の地なり。既に盛末、その臣
小和田甲斐に殺され三浦氏絶ゆ。三浦氏の石塔のみ残り世に石頭寺と
称しけるが、その後 青原と改む」と。
13,陸前の三浦氏 − − 封内記に「登米郡森村 八幡宮は、昔 村主 三浦対馬の勧請する所なり」と。
14,越後の三浦氏 − − 色部文書、観応三年十一月二十九日の三浦関又次郎入道覚円の軍忠状に
「惣領三浦和田下野権守茂実の手に属し、当国黒河城にて軍忠を致す」とあり。
15,上野の三浦氏 − − 三浦若狭守泰村の二男 勘解由左衛門尉景泰、始めて上州利根庄の沼田を領して
沼田と号し、代々居住すと云う。
16,甲斐の三浦氏 − − 諸家系図纂に「一條信長−信経−時信(甲斐守、甲斐守護代)−貞連(号
三浦太郎左衛門、三浦甲斐守の養子)」とあり。
17,尾張の三浦氏 − − 室町幕臣なり。康正造内裏段銭引付に
「四百六十七文・三浦平四郎殿、尾張国中島郡内、赤地段銭」とあり。
又、永享以来御番帳に「二番、三浦平次郎。三番、三浦平次。五番、三浦遠江守」と。
又、文安年中御番帳に「二番、(三浦)八坂小法師丸。五番、在国衆 三浦近江守」と。
又、長享元年 常徳院殿様 江州御動座当時在陣衆着到に「二番衆、尾州 三浦八坂因幡守。
五番、三浦駿河守貞連、三浦鶴寿。東山殿様祇候人数・三浦兵庫介」とあり。
18,三河の三浦氏 − − 三浦家譜に「長門守為通の末孫 市右衛門直元の男 泰翁慶岳(永禄、岡崎)、
弟 藤左衛門直竹(三河宇野辺上野代官)−庄兵衛直正−同 直利」とあり。
第2項の家村の子 義行、その子 行経、ェ政系譜に
「平三郎行経−平六朝経−彦次郎朝胤−平太郎正胤−平四郎重明−式部正明−五左衛門重村
−五左衛門正村−同 正重(三河碧海郡重原庄、妻は 土井利昌の娘)−志摩守正次」とあり。
19,三浦侯 − −上記、 正次、ェ永十六年正月十一日、下野の国 壬生の城を賜う。
二万五千石。ェ政系譜に
三浦志摩守正次−安次−明敬−明喬−義理−明次−矩次−前次−毘次−誠次−俊次−義次=朗次=弘次−顕次−基次 美作勝山 二万三千石 家紋 三引、三澤潟、 明治 子爵 |
20, 紀伊の三浦氏 − − 第3項の義意(弾正少弼)の弟 大膳亮時綱の後なり。系図は
「義意(弾正少弼)−左近大夫時忠−左近将監時通−弟 左近大夫頼忠(国時、権五郎)−長門守為春
−長門守為時(紀州家臣)、家紋、丸に三引、松皮菱」。
21,伊勢平氏 − − 東鑑 元久元年五月六日條に「朝政の飛脚
重ねて到来、先月二十九日、
伊勢国に到る。平氏雅楽介三浦盛時、並びに子姪など、城郭を当国六箇山に構え、
数ヶ月支うといえども、朝政、武勇を励むの間、彼ら防戦利を失いて敗北す。
凡そ張本若菜五郎、城郭を構えし処は、伊勢国 日永、若松、南村、高角、関、
小野など也。遂に関 小野に於いてその命亡ぶ」とあり。
22,伊勢の三浦氏 − − 第3項の義意(弾正少弼)の弟 大膳亮時綱の孫 長門守為時、徳川紀州家に仕う。
23,志摩の三浦氏− − 三国地誌に「国分寺は国府村に有り。上に砦址あり、これは
三浦新助の拠る所なり。新助は、伊豆国の士、三浦四品義同の末子と伝う。永正中、
三浦氏亡び、その族、渡来せしかと云う」と。
24,桓武平氏小松氏族 − − 大和国吉野郡の名族にして、国民郷土記に
「三浦小松三郎兵衛(小松三位重盛の子 左中将維盛、西国の乱 云々、この山中に隠れ、
今、小松三位殿と云う)」とあり。
25,清和源氏細川氏族 − − 三浦氏蔵 細川系図に「頼元−満元−持賢−右馬頭政国−右馬助政賢
−右馬頭尹賢−同 藤賢−主水元賢(三浦四兵衛・三浦兵庫頭・養って子となす、
故に三浦氏と称す)−勘右衛門尉乘賢」とあり。
26,加賀の三浦氏 − − 加賀藩給帳に「千三百石(五三の桐)三浦八郎左衛門」とあり。
27,丹波の三浦氏 − − 氷上郡の名族にして、丹波志に
「三浦義村、後胤 大多利本知村。在中に有り、本家 三浦太郎兵衛、
即ち、系図有り」と。
28,美作の三浦氏 − − 作州古城記に「高田城は、一名 大総山の城、高田村にあり。明徳中、
三浦貞宗 来って ここに居り、相伝う十三世、貞広に至り、永禄中、宇喜多直家の為に亡さる」と。
又、地名辞書に「明和元年、三浦志摩守明次(第19項) 高田二万三千石に封ぜれる。よって
新に城砦を勝山に修築し之に居る。九世相続、明治の初めにに至る」と。19項参照。
又東作志に「真庭郡草加部の三浦氏。義澄二十二代の孫 三浦右京貞政、永禄十二年に移住し、
後、氏を福島と改め、明治、旧に復す」と。
29,石見平姓 − − 当国那賀郡(木束村)多家城主に三浦内膳正平義乘あり、第2項の為通
十五世の孫 平蔵の子なりと云う。周布郷の天上岡八幡宮、文明元年八月十五日の棟札に
「周布左近将監 藤原兼定、家臣 三浦内膳正平義乘」とあり。
又、石見志に「義村−朝村−員村−盛明−義継・・・義茂−高茂−時義−時茂−兼茂−義頼
−兼義−兼幸−幸弘−兼長−長光−兼光(黒沢住)−兼利−兼明」と。
又「幸弘の弟 幸晴−平蔵−義乘(内膳正、木束多家城主、文明元年、日脚八幡宮建立)−五郎右衛門」とあり。
30,石見の三浦氏 − − 諏訪系図に「信勝(若狭守)−三浦信儀
(宮若三浦氏より 養子に来り、里の氏を称す)
−信次−信重−信繁(和泉守)−信貞−信重−信頼」と。
又、当国の儒者に三浦左兵衛興あり、瓶山と号し、富山藩に仕う、その男 吾山なり。
又、国学者に三浦正道あり。
31,備後の三浦氏 − − 芸藩通志 御調郡條に「中山城、古宮山、並びに小原村に
あり。上は、三浦義明の所居といえど、異人同居なりや、不審。下は、
主名を失う。廃祠の跡なるやも知るべからず」とあり。
32,安芸の三浦氏 − −厳島の戦に三浦越中守ありと云う。
又、当国佐伯郡の半坂尾城は 吉和村にあり、三浦兵部の所居と云い、芸藩通志に
「吉和村 三浦氏、先祖 三浦兵部は、半坂尾城に居る。後に中津屋組屋敷に移り、今、
三浦屋敷と呼ぶ。出雲の尼子氏旧臣 三浦備前、来りて兵部に投ず。即ち、養いて子となし、
改めて 兵庫と称す。天正十九年、速田社修造の棟札に三浦兵庫あり。今の弁之助、
その後なり、と云う」と。
又、神名帳考に「速谷神社 神主 三浦氏。棟札に祝祠 三浦権右衛門」とあり。
33,防長の三浦氏 − − 毛利家重臣に有り。
又、幕末、勤王家に三浦太郎あり。
34,土佐の三浦氏 − − 鎌倉時代の初め、三浦義村、土佐国の守護なり。香宗我部文書、建仁三年文書に
「守護職 三浦平六義村」とあり。
又、吸江寺文書に「土佐国吾川山庄内、上谷村の事。右の所領は 道祐が重代相伝の私領也。
而して 美作国高田庄内甘波村、並びに安○名の替となし、永代を限り寄進せしむる所也。
二親の菩提 及び 道祐没後の追善、退転ならざるよう、御計りの段悦び存ぜられ候、云々。
文和三年二月一日、三浦下野守」とあり。
35,豊後の三浦氏− −園田帳に「大分郡高田庄本庄百八十町、地頭三浦助入道殿」と。
又、大友系図に「頼泰。母は三浦肥前前司家連の娘」とあり。下って
徳川時代、杵築の医師 三浦義一の男 安貞(号
梅園)は、儒者なりしが、宝暦中、
二子山に登りて、地動説を唱う。その男 修齢(黄鶴)は、垣齋と号す。
36,イギリス人の三浦氏 − − イギリス人 ウイリアムアダムス、慶長五年、オランダ人
ヤン ヨーステンと
共に江戸に入り幕府に仕う。馬込氏の娘を娶り、ジョセフ、スザンナの二子を産む。
相模国の三浦の地に住地を賜るが故に三浦安針と称す。
地名辞書に「安針塚は、横須賀停車場の西南 半里ほど、琵琶首坂の上にして、
葉山村木古庭の方へ下る路傍に存す。二つの墓石 相並び、一つは妻女なりとぞ。
安針は、本名 ウイリアムアダムス、慶長五年江戸に至り、留まりて徳川家に仕え、
采地二百五十石をこの逸見村に賜り、三浦安針と称せらる。近時 諸史家の研究によるに、
その死は元和五年か六年にして、肥前の平戸港なり。されど安針投帰後は、邦人の女を
娶り二子さえありければ、これなるは 分骨塚、又は、追福塚なるべし。又、本村の
鹿島社棟札に『ェ永十三年三浦安針』とあるは、妻(ェ永十一年死す)馬込氏の所出の二子・
ジョセフ、スザンナの中のいづれかが相続したるならん。されど二代にて この家も
断絶せしたるにや」とあり。
37,他
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