三   沢(ミサワ・ミザワ)

解説

和名抄、出雲国仁多郡、磐城国刈田郡に三沢郷あり、その他 陸奥

陸前、武蔵、甲斐などにこの地名あり。

 

国土基本地図に36ヶ所あり。

 

1、清和源氏木曽氏族 出雲国仁多郡三沢村より起り、同村 鎌倉山城に拠る。

     巡拝記に「三沢氏は、木曽義仲の子 清水冠者の裔」とあり。

     懐橘談に「天文年中、尼子晴久、毛利元就を退治せんが為、安芸国吉田郡山へ発向の時、

     この三沢の城主 三沢三郎左衛門尉為幸 先頭に進み、首 十三級を得たり。然りと雖も、

     尼子勝利を失いける時、為幸、十余騎を従え 元就を襲いけるを元就の勇士 井上七郎

     それを見知りて押し隔てて相戦い、終に為幸 討たれる。その後、晴久卒して後、嫡子

     義久が代わりになりて、弘治三年、毛利元就 当国発向の時、この城を攻め給う。城主

     三沢為景、為継の兄弟 もとより毛利家に志を通じければ、防戦にも及ばず。人質を出し

     軍門へ降りぬ」とあり。

     又、名沢家譜に「利久の女子、出雲国仁多郡亀山城主 三沢為清の二子 為房を婿とす」と。

     又、芸藩通志 備後国恵蘇郡條に「篠原は和南原村にあり。出雲の士 三沢為清、為虎の

     兄弟 同じくここに戦死すといえど、敵は誰なりや。一段許なる荒野なり、村人軍原と

     呼ぶ」とあり。

     又、雲陽志に「横田城は、三沢為忠の築く所」とあり。

2、佐々木氏族 佐々木成頼の後裔 盛常の玄孫 盛昌の子孫なりと云う。

3、淡路の三沢氏 太田文に「上賀茂御領、生穂庄、新地頭三沢右馬允」とあり。

4、清和源氏土岐氏族 ェ政系譜に「家伝に 明智下野守頼兼の後胤にして、子孫に至り三沢を

     称すと云う、為アキラ−信政(明暦二年十月十九日、始めて家綱にまみえ奉る)−信光、弟 信好

     −信存−信門−信以−信政、家紋、丸に桔梗、丸に畳扇打違」と。

5、甲斐の三沢氏 当国八代郡東河内領 三沢村より起こる。

     東鑑巻三十、文暦二年五月條に三沢藤次入道あり。

     又、弘安の頃、三沢小次郎あり、これなどの裔ならんかと云う(国志)

     又、山梨郡上神内川村の名族に存し、三沢美濃守など名あり。

6、駿河の三沢氏 鎌倉時代の名族にして、正治二年、梶原景時 討伐の際、三沢小次郎は、

     平 三武者を討取ると云う。

7、清和源氏片切氏族 片切為綱の子 飯島為満の後にて、為長を祖とす。

8、安藤氏族 磐城国刈田郡の三沢郷より起こるか。東鑑 文治五年八月十日條に

     「三沢安藤四郎ありて、兵略あり」と。

9、陸中の三沢氏 伊達世臣家譜に「三沢氏は、その先 出雲国三沢の人なり。天正中、

     三沢頼母為基、江戸に移り、その子 清長、美濃国大垣城主 氏家志摩守広定の養子となり、

     慶長五年、関ヶ原役の後、広定 細川家に退去す。清長これに従う。清長の娘 入りて

     伊達綱宗の側室となり、綱村を生む。万治二年、清長の子 宗直、始めて当家に仕え、

     延宝三年 昇って一門に列せられ 四年、采村 千石を桃生郡小野村に賜い、九年、加賜

     千石、村を伊澤郡前沢村に移され、後、又 千石を加えらる」とあり。

     封内記に「膽澤郡前沢村は、三沢若狭の采地なり」とあり。

10、他


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