三   木(ミキ)

解説

讃岐 播磨 三河 武蔵 上野 加賀 備後 紀伊 伊予などに

此の地名あり。

分派氏族

 

1,紀伊の三木氏− 当国牟婁郡三木荘より起こる。三木新八郎は、三木浦に居城を

       構え三木浦、里小脇、名柄、盛松の浦を領す。後、新宮堀内氏に併せられる。

       続風土記に「三木里浦 三鬼新八宅跡、今 村中に一族 東兵庫、大倉

       丹後、中村兵内、浜主殿、世古主計と云う者 末孫と云い伝える者あり」と。

2,河野氏族− 播磨飾磨郡の名族にして、播磨古城記に「英賀城は、英賀荘中浜村

       にあり、三木通近の拠る所」と云う。赤松の幕下 三木右馬頭通近より

       九代、通秋まで相続の居館にして、この三木氏は、本国伊予 河野の

       末葉と伝えられ、天正八年、羽柴氏の兵に攻め滅ぼされる。

3,播磨の三木氏 当国美嚢郡に三木庄あり、この地より起りしもあらん。

4,摂津の三木氏 有馬郡生瀬城(生瀬村)は、三木番次郎が築く所の城也と。

5,佐々木氏族− −佐々木系図に「義清−出雲守泰清−義信−宗秀(号 三木四郎)」と。

6,清和源氏 − − 和田系図に「芳美太郎貞俊−横尾俊重−俊泰(三木彦次郎入道、法名 俊崇)−俊連(次郎)」と。

7,蒲生氏族 − − 近江国の蒲生郡の名族にして、郡史に「三木氏は、下迫村に住す、蒲生氏の支流なり。

按ずるに儀俄氏の分流ならん」とあり。

蒲生氏郷の家臣に三木式部あり。

8,飛騨の三木氏 − − 近江国の佐々木氏の一族と云う。千光寺記に

「天正年中、三木自綱入道久庵、益田郡より起り、三郡を掠領して大に松倉に城を築く。

自綱の先祖は、江州 佐々木氏多賀党の子孫なり。前国司 姉小路殿の没落にあたり、

忠死の功により、三木右京大夫義頼(良綱、飛州志に良頼、雲山と号す)。上洛して国司号を

望み請い、再び下国す。その子を大和守自綱(右京大夫)とす。二男を鍋山に置き、

頼綱(右衛門尉顕綱)と云う。天正十三年八月、金森長近の兵来り討ち、自綱を吉城郡高遠城に

囲みて、之を降し、松倉山に向かう。自綱の子 豊後守秀綱 出走し、松倉 終に陥り、三郡平定す」とあり。

三木氏系譜に「佐々木秀義−経高−景綱(多賀氏、蔵人)−則綱(多賀太郎)−則光−時綱

−行房−政憲−定光−経光−長則−朝則−則綱(三木の祖、号 三木太郎左衛門、始めて

江州三木に住して、京極近江守高員の家令となる)−綱良−直頼(大和守、桜洞築城、

天文二十二年六月十四日卒)−良綱(右京大夫)−自綱(大和守)−秀綱(鍋山豊後守)」と。

9,越中の三木氏 −上記の一族にて、三州志、新川郡猿倉、船倉城條に

       「天正八年、三木休庵(自綱)、船倉山に新城を築き、後に休庵の二男

       秀綱に小島三八郎を副えて置くと、飛騨軍記に見ゆ」とあり。

10,藤原北家姉小路流 − − 諸家系図纂に

「直頼(前飛騨国司、三木大和守、藤原氏也)−良頼(同、右兵衛督、法名 雲山)

−自綱(同、姉小路大納言、天正十五年、京都にて病死、四十八歳、法名 休安)

−直綱(三木右近大輔、慶長十四年、尾州にて病死、歳 三十四)−慶利、家紋、剣菱」と。

又、ェ政系譜に「直頼−良頼−自綱−近綱−春綱(ェ永四年、家光に仕う)−自宣−自常

−自頭−自香−高朗、家紋、丸に剣花菱」

11,橘姓 − − ェ政系譜に「勘兵衛清定(ェ永十年、御徒に召し加えられ、三代相続いて順有に至る)、

順有−清喜−清泉、家紋、丸に乾の卦、丸に九枚笹」と。

12,清和源氏 上野国新田郡三木村より起こる。この地は、長楽寺文書に

       「寄進し奉る世良田山長楽寺に上野国世良田郷後閑三木内、作人子善

       後家、在家壱宇、田五段、畠二町八反、毎年年貢合わせ拾貫文間事。

       右の所は、代々相伝、当知行相違無き地なり。或は、祈祷の為、或は、

       亡者の菩提の為、寄進し奉る所也。建長三年、散位 義政判」とあり。

13,甲斐 信濃の三木氏− −両国に多く、信濃なるは丸に橘を家紋とす。諏訪志料に

       「阿波国忌部の氏長者より出づ。当時の氏村、長氏など 皆長者と称せ

       らる。その祖先は御衣人を職とし、荒妙織進の家系なり。御衣人と

       称するは神祇官に属し、往古より代々相継ぐと云う。当家もその末葉

       なりしが、応仁の乱後、一時浪人して、甲州に来たり、武田家に仕う。

       主家滅亡後徳川家に属す。三木助左衛門これなり。その男三木主膳重舟、

       官を辞し浪人して諏訪郡に来たり農に付く。改名して重舟喜兵衛と云う。

       二代目もまた喜兵衛と云う。苦心の末 産を成す。

       これを三木氏の中興とす」と。

14,御花指三木氏 − − その書状に「拝領屋敷松枝町、坪数百三坪余。本国生国 共に武蔵。

御花指・三木松盛。曽祖父 三木松盛は、台徳院様御代、御立花御用を高曽祖父松盛へ

仰せつけられ、御用相勤む。高曽祖父より曽祖父松盛迄 打続き御用相勤め奉り候処、

元禄年中 類焼の節、書物等焼失仕り候に付き、年月委細の儀は、相知れ申さず候。

元禄五年六月 病死仕り候 云々」とあり。

15,金子氏族 − − 新編武蔵風土記 入間郡三ッ木村の三木氏條に

「当村を開墾せし和泉守国重の子孫なり。先祖は 当国七党の内 金子十郎家忠より

出づと云う。国重は、北條高時に仕えしが、没落後、当村に来り、氏を三ッ木氏と改む。

天正の頃の先祖 四郎左衛門と云いしは、沢村の天岑寺を開基せし人にて、天正十七年

二月一日没せしと云う。それより先の事は記録を失いたれば全て伝を失へり」と。

16, 他


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