三   橋(ミハシ・ミツハシ)

解説

数流あり

埼玉県大宮市、岐阜県岐阜市、福岡県山門郡にこの地名あり。

分派氏族

 

1,桓武平氏三浦氏族 加納氏の族にして、会津耶麻郡三橋村より起こり、三橋城に拠る。

新編風土記、三橋村條に「館跡、加納盛時の孫 三橋太郎義通築く。義通は、

小荒井組貝沼村、及びこの村を領せしが、十四代の孫 越中盛茂、天正十七年、

麿上原合戦に葦名義広に従って黒川に退きければ、六月七日、伊達政宗

駒形山を下ってこの城に拠りし」と云い、

       又、「菅井村館跡は、康安二年、三橋太郎義通築くと云う。旧家 忠右衛門、

この村の農民なり。三橋太郎義通の裔孫なりと云い伝う。今にこの館跡に住す」と。

       又、三橋兼也は、暦術、連歌に長じ、蒲生忠郷の寵遇を得、花本宗匠となる。

2,藤原姓 房前の後胤 三橋太郎信季、頼朝に仕う。子孫代々三河に住し、

       佐助信盛の二男 藤十郎信久、北条氏政に仕え、その男 但馬守信次

      (信勝)は家康に仕う。家紋、丸に向兎、角萬字。

       又、信久の二男に藤七郎盛勝、その男に藤兵衛盛忠などあり。

       家紋に、丸に三文字、上り藤に三星、も用うるものあり。

3、 嵯峨源氏渡邊氏族 − − 「渡邉次郎省の苗裔 源五郎正、天文中、三河国三橋村に住し、

藤原姓に改め、三橋を家号とす」と云う。家紋、上り藤の内に三星。三扇の内に三星。

ェ政系譜に「藤八郎正弘−与次右衛門長富(左吉、家康に仕う)−善兵衛成次(三百十石余)」と。

4,清和源氏 − − 家紋、丸に蔓柏、丸に向兎。金春八郎左衛門の弟子に三橋彦次郎?次、江戸幕府に仕う。

5,秀郷流藤原姓 佐野氏の族にして、「佐野土佐守行政−市橋修理大夫行勝−行信−勝吉

−吉高(三橋)−三橋高安」なりと。

6,美濃の三橋氏 席田郡の三橋村より起こる。三橋伝左衛門正利あり。

7,大和の三橋氏 もと矢田氏の臣、その系図によれば、この氏は、信濃の三橋、

       一説には、伊勢国 田丸の城主と云う。紋は、茗荷の丸、七ッ輪違。

       その子孫 高市郡鴨公村大字高殿に住む。

       又、添上郡井戸氏の麾下の将に三橋氏あり。

8,他


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