目   黒(メグロ)

解説

武蔵 佐渡などに此の地名あり。

岡山県岡山市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,児玉党 武蔵国荏原郡目黒村より起こる。家資を祖とす。

       承久記巻三に目黒太郎、東鑑巻二十に目黒弥五郎、の名あり。

2,畠山氏族 目黒系図に

       「畠山重忠(庄司)−重保−重行(目黒小太郎と号す。元久の難、父祖に後れ、家人

       宮野某の介抱により、武蔵国荏原郡目黒村に蟄居す。長じて その居る所により

       目黒小太郎と称せり。建保六年、陸奥大沼郡伊北の主 山内季基に拠り、大沼郡

       宮崎村に住す。同年五月、会津の主 佐原盛連に属し、稲河庄 伊豆ヶ原村に移り、

       その地 九村を領し、伊豆ヶ原村に柵を築き住す。承久元年、野老沢、棒、小巻、

       麻布村を領し、野老沢村飯渓山の東麓に壘を築きて住す)−重堯(佐原光盛に仕う)

       −重隆(芦名泰盛に仕う)−重英(芦名盛宗に仕う)−重貴−光重−重潔−重連

       −重倫−重保−政業−重郷−重綱−重康−重頼−重光−重敦−重就(主家 芦名家

       没落により野老沢村に居し、農民となる)−重晟−重順−重村−重茂−重常−重文   

       −重満−豊昌−申富−重利−公邦−安豊−重介(柳津村 二ヶ村の村長)=重彬」と。

3,会津の目黒氏 当地方に上記の子孫 、支族の子孫多し。

       新編風土記 大沼郡牧内村 旧家 義左衛門條に「先祖を目黒七郎重光と

       て、葦名遠江守盛貞に仕えて、建武中、前代蜂起の時、盛貞に随い、

       片瀬にて討死せり。その子 勘解由光春、葦名直盛に随って会津に来た

       り、この地を領せしと伝え、光春の四世の孫 勘解由重安の時、永禄中、

       長沼豊後守と云う者、葦名家に叛きしを討って功ありければ、賞して

       米沢村を与えしとぞ。葦名家亡びて後、農民となれり」とあり。

       又 皇国名医伝に「目黒道琢 医者なり。名は尚忠 字は恕公 道琢はその

       号、字飯渓と称す。会津の人、医学精密、最も校訂に長ず。多紀元幸の

       学館を創むるや、延て諸生を訓督す。館登りて国学となる。幕府よって

       命じて助教となす。凡そ教職に居る者、皆医官。而して遂に道琢、布衣

       を以って興る。蓋し、特典なり。道琢 初め大番頭 青山氏に仕え、、後、

       白河侯に仕う。皆 辞して去る。ェ政十年、将軍家齊、召して之を見る。

       この年卒す。云々」とあり。

4,藤原姓 − − 磐城国伊具郡の名族にして、観蹟聞老志に「講念寺は、島田村にありて

国平山と称す。文明中、従五位下 藤原惟行の後裔 目黒源内兵衛尉国平なる者、

同村の他田館に居る。その子を石見守資平と云う。平日 純孝、父を喪いて

悲募の情に耐えず、一精舎を建てて 目黒院と号す。これその地也」とあり。

5,因幡の目黒氏− 八上郡水尾山城主に目黒伝之助あり、家老を大熊、佐藤と云う。

       又、高草郡蛇山城は、目黒一族の持城ならんかと云う。

6,尼子家臣 尼子晴久の家臣に目黒新右衛門あり、又、上月城に篭もる士に

       目黒助次あり。

7,他 


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