松   岡(マツオカ)

解説

下総に松岡庄あり。その他諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

 

国土基本地図に25ヶ所あり。

 

1、松岡真人 熱田神宮の祠官にして、熱田宮 旧記に「中摧H宜、姓氏戸の事、松岡真人、

     日本武尊 東征の時、隨従の士なり。元祖 姓名を知らず、然れども功によりて霊社を祭り、

     松岡社と号す。これ松岡姓の曩祖なり。云々」とあり。

     尾張志に「松岡真人、氏人一党 十八家あり。日本武尊 東征の時、御軍に従へる士なり

     とぞ」とあり。

     この裔 尾張 三河に蔓延す。江戸時代 松岡多助雄淵(下総守)あり、神儒の学に通じ、

     仲良、玄斎と称す。

2、清和源氏頼親流 肥後の名族にして、北里系図に

     「修験者因幡坊(北の家、代々 北里家の執事となり、松岡を以って家号とす)」とあり。

     又、「北里加賀守定義−守次(松岡丹波守、執事 松岡某の養子)」と。

3、鎌倉幕臣 東鑑に松岡小三郎、松岡左衛門四郎、松岡左衛門次郎時家などの名あり。

4、武蔵の松岡氏 埼玉郡の名族にして、新編風土記に

     「大塚村 松岡氏、先祖 松岡豊前善守勝政は、成田譜代の侍にして、千貫文を所務せり。

     天正十八年、忍城落城の後、当村に来り住せしより、子孫連綿として今に至れり。

     勝政の名、成田分限帳には長達と載す。改名せしにや」とあり。

     又、忍城士に松岡十兵衛あり。

5、下総の松岡氏 当国の松岡庄は、初め 平頼盛の領たり。後に、結城朝光に帰す。

     地理志料に「東鑑 文治二年條に『下総国豊田荘、一名 松岡荘は、按察使の家領』と。

     陸奥 出羽按察使 平頼盛を謂うなり。

     又、ェ元四年條に『左馬権頭入道昇蓮、上野入道日阿と下総松岡の荘田、久安の両郷の

     所務を論訴す』と。今 松岡村存す。日阿は結城朝光なり」と。

6、卜部姓 鹿島神宮の大祝にして、新編国志に

     「松岡、卜部氏なり。世々 鹿島郡田野邊村に住して、鹿島大祝の職たり。松岡と称する義

      詳ならず」とあり。幕末明治に鹿島神官 松岡彦郎時懋あり、歌人として名あり。

7、桓武平氏畠山氏族 奥州の名族にして、畠山重忠の裔、淨法寺氏の族類なり。岩手県史談に

     「文治五年、源頼朝 奥州を平らげて後、畠山庄司次郎の二男を下し 二戸郡を賜う。

     淨法寺・松岡修理の祖、本田次郎近経の二男供奉し下り 淨法寺の内を領す。よって

     本田村にあり。淨法寺と云えるは松岡氏の二男、僧となり、鎌倉淨法寺の住職たりしが、

     松岡氏の長男 急病を以って死したるが為、還俗して その後を継ぐ。故に淨法寺と称す」と。

8、羽前の松岡氏 当国飽海郡八幡宮大淨山 東禅寺 享禄五年八月の金口銘に

     「松岡源左衛門尉能秀 敬白」とあり。

9、羽後の松岡氏 当国雄勝郡に松岡の地名あり、ここより起るか。

     山北小野寺遠江守義道家方に「松岡越前(松岡城主)」と載す。
10
、清原氏族 清原系図に「対馬守明栄−良明( 松岡侍従房)」とあり。

11、安倍姓 信州伊那の名族にして、初め 小笠原氏、後、武田氏に属す。天正中、松岡右衛門

     重則 徳川氏に従いしも、座光寺信久と争い所領を没収される。市田村の松岡城は、この

     氏の居城にして、甲陽軍鑑に「松岡、五十騎」と載せ、南信史料に「天喜四年、安倍頼時、

     源頼義に亡ぼさる。翌五年、貞任討ち死、その二子 仙千代、時に年 二才 乳母と共に

     上野国に入り、後、信濃国に来り、牛牧村の民家に居ること数年、郷民 崇敬し、遂に

     押して地頭役となす。承暦中に至り、居を卜してここに城壁を構え、本姓 安倍を改めて

     松岡と称す。暦応中、松岡景則に至って小笠原氏に属し、武名を顕わし、天文の末、

     新左衛門に至り、武田氏に属す。天正十五年没落」とあり。

     甲州にありて奥州の安倍貞任より出づと伝う。

12、越中の松岡氏− −砺波郡道坪野壘は 一説に松岡新左衛門、その後、久兵衛と云う者拠ると云う。

13、伊勢の松岡氏− −員弁郡の名族にして 三国地志に「金井堡、按ずるに松岡彦之進の居守」とあり。

     又、名勝志には桑名郡に収め、桑名志に「金井城址、東金井村 西谷の山上にあり、

     土塁の形 存す。天文中、松岡家勝これを築く。朝明郡萱生城主 春日部氏の幕下たり。

     永禄十年、織田氏の陥す所となり。村の西 天白山に自殺す。その子孫 今猶存せり」とあり。

14、藤原北家日野家流 日野資名の孫 資国を祖とすと云う。

15、赤松氏族− −播磨発祥にして、中興系図に「松岡、村上源氏、赤松四郎茂行これを称す」とあり。

     又、永禄年中、松岡次郎兵衛高則なるもの山手公文に来り、その孫 松岡五郎兵衛永則に

     三子あり、長男を則久と云い、その家を継ぎ、次男 定則は、打穴に住し、三男 季則、

     分家すとぞ。

     又、東北條郡の中村社家に松岡権正、松岡伊織など有り。

16、菅家族 美作の名族にして、原田日向守忠門の裔なりと云う。

17、芸備の松岡氏 備後国世羅郡に松岡城(川尻村)あり。芸藩通志に「林肥前就長の所拠。或いは

     松岡某とも云う。城名によれば、初め松岡ここを守り、後、就長これに拠しにや詳ならず。

     平家城、赤城、同村にあり。赤城は就長の弟 右馬允の所拠」とあり。

     又、吉川方の武士に松岡安右衛門あり。

     又、備後市村の士 松岡重則の男 唯懿は、儒者にして蘆堤と号す。

     又、安芸の国学者に松岡経平あり、安芸国神名帳考を著わす。

18、藤原姓 紀伊家家臣に松岡孝常、孝登などあり、家紋、花輪違、揚羽蝶。

     ェ政系譜に

     「孝道(吉宗に仕う)−孝弘−古堅−古敦−女子、家紋、花輪違、揚羽蝶」と。

19、隅田党 紀伊国伊都郡の名族にして、畠山記に「永正十六年云々、松岡右京進」の名あり。

     又、隅田組地士に松岡右京、松岡四郎左衛門などあり。

     又、続風土記に「吉原村地士 松岡右近、松岡織江、幕の紋、ナデシコなり」とあり。

20、讃岐の松岡氏 古え、松岡信濃守信賢あり。

     地理志料に「老友 松岡君調・世々 寒川郡多和の祠官たり。篤信にして古えを好み、

     古実事・是を求む。著書 多く古書 旧器を哀集し、千載に尚友し、以って考証に資し、

     多和文庫を立つ」とあり。

21、土佐の松岡氏 幕末、松岡七助敏(後に時敏、毅軒)あり、明治、元老院議官になる。

22、大友氏族 豊後国大分郡松岡村より起る。大友系図に

     「親秀−重秀(戸次の祖、庶流 松岡)、その兄 頼泰−親時−貞宗−氏時−親世−持直(

     松岡八郎太郎)」とあり。

     又、一本に「重秀−重親(松岡)」とあり。

     又、一本に「戸次重秀−時親−豊前前司貞直−兵庫頭頼時−右馬助直光−松岡某」とあり。

     又、立花系図に「戸次重秀−重頼(松岡左近将監、松岡城主)」とあり。

23、丹治姓 筑後久留米の名族にして、江戸時代 松岡平次郎辰方あり、塙保己一の門下にして

     梅軒と号す。続々皇胤紹運録などの著あり、その男 行義、その男 明義なり。

24、猿楽者 江戸時代、松岡藤七郎元知あり。

25、他


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