|
松 波(マツナミ) |
解説 |
石川県珠洲郡内浦町、鹿児島県曽於郡志布志町にこの地名あり。 |
1、清和源氏畠山士族− −能登の名族にして、珠洲郡松波村より起る。文明六年、国主 畠山義統の
三男 常陸介義智、この地に入部し、三千余貫を知行す。三州志に「松波城は 木郎郷
松波村領にあり。松波常陸介 代々居たり。按ずるに元祖 常陸介義智は、畠山義統の
三男にて畠山と称す。文明六年三月、松波に入部し、この郷三千貫余を領せり。その子
畠山義成は後に常陸介と号す。その子 常陸介義遠、その子 常陸介常重、その子 松波
常陸介義龍、この代より松波と称す。その子 常陸介義親なり。
義親、天正五年七月、七尾落城の時、七尾の将士等と七尾を去って、神保長頼、河野肥前
熊木兵部などと同じく居城し、松波を守れども、長澤筑前、強攻せしによりて、義親始め
尽く戦死せり。凡そ義親まで六世、百五年相続して松波城に居れり。義親の子 連親、
所縁を以って越後、称念寺に母と一所にあり。
長 連龍、再び本領を安堵の時、連龍に随身し、長与六左衛門連親と称す。弟 義直、松波を
名乗って子孫 長家の臣となれり。庶流は、公臣 松波重左衛門の家これなり」とあり。
加賀藩給帳に「百三十石、松波新六」の名あり。
2、藤原北家日野家流 − − 山城発祥にして、中興系図に
「日野中納言資宣の男 式部少輔忠光(出家頼宣) 日野法界寺別当となり、淨俊と称す。
居所の傍に松並木あるを以って松並と号し、後、松波に改む。その八代孫 勝九郎光政、
故ありて、斎藤山城守秀龍入道道三と称す」とあり。
又、新撰美濃志に「道三は、始め 京都の人にて、法蓮坊と云いし日蓮宗の僧なりしが、
還俗して松波庄五郎と名乗り、油を売るを家業とす。かくて美濃に来りて商売す」とあり。
3、幕臣 − − 上記の裔 幕府に仕う。家譜に「道三の二男 雅楽頭政綱、兄 義辰(義龍)の家を継ぎ
信長に仕え 再び、松波に復す。その子を平右衛門勝直と云う。家康に仕え六百石を領す。
その男に 五郎右衛門勝安(六百石)、平右衛門勝吉(七百石)、市右衛門正俊(千石)あり。
家紋、丸に簾、瓜、舞鶴」とあり。
4、紀伊の松波氏 − − 名草郡の名族にして、続風土記、覚善寺條に
「相伝う 松波太郎左衛門と云いし者 大永の頃 帰依し大永六年三月に道場を建立す」と。
5、京都藤原姓 − − 歴名士代に「従四位下、松波三河守藤兼興(文明八年六月)」とあり。
又、京都の人 松波播磨守光興は、儒者として名あり。
6、広島の松波氏 − − 明治天皇の皇后の雑掌に松波資之あり、子爵を賜う。
7、他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る