松   本(マツモト)

解説

大和に松本の庄あり、其の他 諸国にこの地名ありて数流の

氏を起こす

分派氏族

 

1,桓武平氏 伊勢平氏の一族にして、三重郡松本村より起こる。中宮進士教光

       の三男を松本盛光と云う。富田盛基の弟にして、日永城主 楯三郎に

       組し、元久元年四月亡ぶ。

2,伊勢の松本氏 上記の他、ェ政の頃、松本村の人 松本宗十郎安親は、治水

       開墾に功多く、名を松宗垣内と賜う。

3,秦姓 伏見稲荷社中社神主、権祝、新権禰宜などたり。その系図に

       「賀茂建角身命二十五世 秦公伊呂具、和銅四年、勅により稲荷社の

       神官となる。その十八世孫 為高−為賢−忠賢−忠弘−清忠−清定」

       とあり。

4,大和の松本氏 葛下郡岡野氏の家老にこの氏あり。

       又、十津川郷鎗役由緒書に「山手村松本宇之助」

       又、「山手村 庄屋 松本惣兵衛」などあり。

5,摂津の松本氏 西成郡の名族にあり、保元二年三月、松本太三郎など、

       粉浜村を開発すと伝えられる。

       又、東成郡には、応永年間 松本道把なる者見え、

       又、島上郡の松本庄兵衛尉教西は、文明七年四月、尊重寺を開基す。

6,歌舞伎の松本 元祖 松本幸四郎は、下総小見川の人、久松多四郎の門、初め

       小四郎と云う。二代は、四代目市川団十郎、三代は、五代目団十郎、

       四代は、錦江と号す、五代は、錦江の男、六代は、その男なり。

7,佐々木氏族 近江国滋賀郡に松本村あり、この地より起りしもあらん。

       当地に松本城あり、松本民部少輔居城す。松本民部少輔は、佐々木源氏

       の家族にして、吉田上野介道宝の末の子なり。大津松本に居して、後、

       越前にて戦死すとぞ。

8,佐々木氏族− 紀伊の名族にして、松本宗佐の男 助持、兄 刑部と共に太田村に

       拠り、秀吉の南征を拒む。後に大和大納言豊臣秀長に仕うとぞ。

9,三河の松本氏 天誅組の士に松本謙三郎奎堂あり、刈谷の藩士なり。

10,秀郷流藤原姓波多野氏族− −波多野系図に「大友義景−信景−景朝(号 松本)」と。

11,清和源氏 甲斐国の名族にして、山梨郡松本村より起こると云う。

       武田流栗原十郎武続の後胤 兵部尉政信、その子 兵部尉行長、西上野に

       住し、氏を松本と云う。

       松本丹後守吉久あり。

12,武蔵の松本氏 成田下総守長家家臣に松本加賀守能幸あり、その男

       喜兵衛正吉(貞能)、その男 次郎右衛門正重、幕府に仕う。源姓。

       子孫五百石。家紋、釘抜(ェ永系図)、葉鋪牡丹・牡丹巴(ェ政系譜)

       又、風土記稿に「久良岐郡本郷村松本氏。十二天社の神主にして、

       吉田家の配下なり。松本次郎左衛門(文禄の頃)の子孫にして云々」と。

       又、男衾郡西之入村の名族に存す、先祖松本丹後、村内明善寺を開基す。

13,桓武平氏千葉氏族 − − 下総国海上郡の松本村より起る。千葉支流系図に

「本荘七郎盛胤−邊田六郎朝胤、弟 高上弥七資胤、弟 松本九郎胤基−秀胤−胤清−親胤」と。

14,下総の松本氏 − − 又、葛飾郡にも松本村存し、小金本土寺過去帳に「松本正光、永正二年正月、

松本十左衛門」とあり。

又、日光山瀧尾別当古銅経筒に「下総国沓掛庄 松本民部少輔宗善、大永 云々」とあり。

15,清和源氏伊那氏族 − − 信濃国筑摩郡の松本村より起る。尊卑分脈に

「満快五世の孫 伊那為扶の曾孫 埴田太郎公光−行光(松本彦太郎)−忠公、弟 時光」とあり。

又、中興系図に「松本、清和、本国 信濃、右衛門尉満快の九代 彦太郎行光、これを称す」と。

16,伊勢氏族 − − 伝え云う「伊勢新八の男に松本主税助と云う者ありて、信州の軽井沢を領す」と。

17,上野の松本氏 甲陽軍鑑に「西上野衆、松本兵部、十五騎」とあり。

18,紀姓 − − 常陸国鹿島の名族にして、鹿島治乱記に「松本等四人の宿老」とあり。

又、新編国志に「松本、附織田。紀氏の由、神陰流の目録に見えたり。鹿島郡の著姓なり、

松本と称する由縁詳ならず。鹿島氏四臣の一にして、松本備前守(尚勝)、その子 右馬允は、

共に刀槍の術を以って世に名あり。永正中の人なり」とあり。

19,幕府医師 − −江戸時代後期の幕医 松本良甫の養子に良順あり、明治後には初代陸軍軍医総監や

貴族院の勅撰議員などを務めた、男爵を賜う。

20,岩代の松本氏 − − 葦名氏の重臣にして、塔寺長帳に「明応三年五月、会津より長井へ、松本対馬殿、

御代官として御立にて、たてのもちの館を落し候」とあり。

又、新編風土記 大沼郡條に「屋敷村船岡館跡は、松本氏代々の居所なり。その先は

信州の松本氏にて、葦名氏の臣たりしより 礼遇他に異にして、四天宿老の第一と称せり。

塔寺村の八幡宮長帳に『天正三年、松本図書助、安積郡にて討死』せし由見ゆ。その子

太郎、同十二年、生年十六歳にて、聊か恨みの子細ありて、葦名家を乱さんと企て、

河沼郡笈川村の地頭 栗村下総を語らい、葦名盛隆、城東の羽黒山にて舞楽の遊覧ありし

隙を伺い、黒川の館へ打入りしが、事ならずして共に討たる」とあり。

又、会津の武士に松本重信あり、寒緑と号す。

21,出羽の松本氏 最上義俊家臣に松本理左衛門利直あり、後、松江侯に仕う。

22,越後の松本氏 − − 当国古志郡の名族にありて、明応六年の越後検地帳に

「長尾弾正左衛門尉の被官 松本次良左衛門」とあり。

又、伝え云う「同郡の荻城は、一説に小木城と云い、蓮花寺村の山中に存す。

もと小木氏の居城なりしが、後、松本大学忠繁、当城に拠り、上杉謙信に仕うと云う。

又、三島郡の石井十二社に荻城主 松本大学頭奉納の瓶子あり。

又、年友城(年友村)の城主に松本大炊助あり」と。

又、上杉景勝の臣 松本伊賀は、出羽の小国城に住す。

又、江戸時代、米沢藩の名臣に松本彦左衛門秀実あり、魯堂と号す。

23,秀郷流藤原姓 − − 斎藤氏の族にして、尊卑分脈に

「河合斎藤助宗−景実(飛騨 大和等の守)−越前介実済−宗保(松本五郎)−助範(松本太郎)、

弟に次郎実忠、三郎 範済、四郎 実秀、六郎 範国」とあり。

24,幕臣藤原姓 − − 上記 六郎範国の後と称す。ェ政系譜に

「猿楽者 松本庄左衛門正勝(もと紀伊家臣、小林氏)−源八郎正郷(勘定奉行)。

家紋、丸に正文字、輪違の内に花菱」と。

25,加賀の松本氏 三州志 石川郡鷹巣砦(湯涌郷西市瀬村領に有り)に「天正八年、盛政、

尾山入城の時、この城を重修し、飛騨の鎮として、拓殖喜右衛門を置き 十一年の頃

敦賀八矢と云う者を置き、その後、松本我摩久と云う坊主を一 二年置く」とあり。

       又、加賀藩給帳に「百五十石(七宝の内花菱) 松本三郎、百石(丸の内に

       松皮菱) 松本年万、三十五俵外七人扶持 松本久作」とあり。

26,橘姓 − − 伝え云う「丹後国竹野郡の中館城(木津村中館)は、松本氏の居所にして、この松本氏は、

橘諸兄の後にて、信濃の松本より起ると云い、松本信濃守正次、応永元年に築城すと云う。

又、信濃守正勝、七郎正繁等あり。又、松本正次の後裔は、山中氏を称す」と。

27,丹波の松本氏 − − 丹波志 氷上郡條に「松本次郎太夫、子孫 余田徳尾村。元祖 次郎太夫、

二代 弥助。この人 三人張りの弓を引く射芸に達す。当深山中に牛鬼出づ。然るに弥助、

これを射る。この牛鬼は、御嶽山(天田郡)に住む故、矢を負いながら山に返り死す云々」と。

又、「松本刑部、子孫 戸平村。上の刑部株と云い、本家 善左衛門、分家 作右衛門、

六郎兵衛、三件ばかり」とあり。

28,伯耆の松本氏 − − 西伯郡の名族にして、平安末期の大原安綱の後と云う。古鍛冶屋なり。

瑞仙寺鐘銘に「天正十三年、松本與三郎」とあり。

29,美作の松本氏 津山の名家に有り、佐伯屋と称し、江戸時代諸役を勤む。

       又、津山藩分限帳に「五石三人扶持 松本万亀四郎、四十五俵 松本八左衛門」とあり。

30,備後の松本氏 − 芸藩通志 世羅郡條に「上津田村の松本氏は、先祖 石見国の三本松城主

吉見政頼の男 広正より出づ。広正、氏を松本と改め、家人五十口を率いて、この地に居る。

今 藤左衛門まで七世、家に三條吉長の刀を蔵す。毛利氏より正頼に賜りし物と云う」と。

又、尾道條に「久保町泉屋、姓は葛西なり、先祖 松本次右衛門、世羅郡より来り、世々

この地に住す。毛利氏の時、一相と云う者、三十二石あまりの奉を受く。その後、重政、

寛文二年 藩より賀島を賜う。万治より安永の末まで、世々郷の老職たり、今の三之助、

その後なり」と。

又、奴可西城町條に「松本氏、先祖 松本源次兵衛は、久代景盛の家人なり。永禄以来、

三上郡篠津原の合戦に、一番槍をせしにより、景盛賞して、太刀 青銅を与う感状あり。

子孫庶人となり、松本屋と云い、今の保兵衛は、その後なり」と。

31,桓武平氏 城氏族 − − 紀伊国牟婁伏拝村鬼城(東牟婁三里村)主に松本源四郎と云う者ありて、

続風土記、旧家 松本源四郎條に「城栗栖と云う所に代々居住す。これ古の下屋敷と云う。

その家伝に『鎮守府将軍 平惟茂の男 秋田城之介繁茂七世の孫 越後国小河荘 赤谷城主

城九郎資国の後なり。資国の子を資茂と云う、寿永二年、越後守に任じ、長茂と改名し、

正治三年、都にて源朝政を東洞院第に攻め、軍敗れて熊野に奔り、桐原村に隠れ

本宮の神地を支配す』と。長茂五世の孫 範永、元徳元年、鬼城を築き、正慶元年二月、

八鬼尾谷、九鬼、三越峠の三ヶ所に関を置きて、熊野参詣往来の旅人を改めて関銭を出さしめ、

累世ここに居る。九代の孫 家永、天正十三年、堀内氏と戦いて大いに敗れ、勢州に奔りて

御炊大夫に依り、明年故郷に帰る。その子 範家、父と共に敗れて落城し、居を松本に移し、

家勢大いに衰う。その孫 資久の代に堀内氏より大阪籠城を勧められしも、父 資家、従わず。

武士を捨て農となり、数代 大庄屋を勤め、家 分かれて三軒となる」と。

32,紀伊の松本氏 那賀郡勝神村 地士に松本貞八、名草郡神宮下郷杭瀬村 地士に松本弁次郎、

       又、山地の四頭に松本氏あり。

       又、伊都郡野町村 地士に松本弥三右衛門など多し。

33,藤原南家相模氏族 − − 相良系図に「頼広−長利(或いは長俊、松本)」とあり。その裔

松本甫信の三男 主税峯盈 江戸幕府に仕う。ェ政系譜に

「峯盈(宗尹《吉宗の子》卿に仕う)−峯高−時憲、家紋、丸に三本矢、剣花菱、三桔梗」と。

34,讃岐の松本氏 − − 全讃史に「西荘城は、西荘村にあり。松本兵部大夫茂安、これを築き、子孫世々

ここに居る。茂安の子を国直と云い、その子を茂国と云う。而して その六世の孫を茂朝と云い、

兵庫介に任ぜらる。第六世の孫を助之進茂頼と云う。代々の霊を祠して松本大明神と号す。

天正七年、阿の重清城に於いて戦死す。茂頼、常に法花を信じ、その胃の頂上に妙見神を蔵す。

西荘村の社これなり」と。

35, 薩摩の松本氏− −地理纂考、囎唹郡福山郷佳例川村條に

       「野牧場苑、福山牧司 松本平太左衛門兼備」とあり。

36,他


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