|
松 平(マツダイラ) |
解説 |
三河及び常陸国久慈郡にこの地名あり。 |
分派氏族 |
|
1,清和源氏新田氏族 − −東大資料編纂所発行系図に、
新田義重−義季−頼氏−教氏−家時−満義−政義−親季−有親−親氏┐ |
2, 賀茂姓
− −三河発祥の大族にして、後に徳川家を起こし、天下に覇たること二百数十年。
上記、親氏、三河国賀茂郡松平郷に到る。
3,改称と嫡庶分別 − − 永禄九年十二月、家康、奏請して称号を徳川と改む。
又、成島の改撰風土記に「十二年己巳正月三日、松平を改め、徳川と
称せられ、足利将軍義昭、内書を進らす」と。
以来将軍家、及び御三家、御三卿の嫡家のみ徳川と言い、その分家は
松平と言う。又、甲府、館林の異例はあれど、将軍の子弟と云えども、
皆 松平を称す。これらはその発祥地を冠して竹谷松平、五井(御油)
松平などとも言う。
4,奥平流 − − 村上源氏、奥平信昌は、家康の娘(亀姫加納殿)を婚りて、忠明を生む。
子孫 松平の称号を賜り、松平を称す。
武州埼玉郡忍、十万石、幕末 忠寿にして、明治 子爵
5,保科流 − − 二代将軍秀忠の男 正之、保科家を継ぎ、後に松平を称す。
幕末に至るまで会津二十八万石、会津征伐後、陸奥斗南三万石(明治、七千三百八十石)。
明治になり、松平容保の長男、容大、子爵を賜り、陸軍の騎兵大尉となり、貴族院議員を勤む。
6,柳沢流 − −大老格 吉保の後、嫡流は 松平に改む。大和郡山十五万千二百八十八石、
明治になり 柳沢に復す。
7,大河内流 − − 清和源氏と称す。長沢松平の家号を継ぐ。伊豆守信綱(家光に仕え、
老中となり島原の乱を鎮定)の家なり。ェ政系譜に
「信綱(伊豆守、川越城主)−輝綱(甲斐守)−信輝(伊豆守)−信祝(甲斐守) ┐ 家紋 三本扇の丸、三蝶の内十六葉菊、もと三連浮線蝶」と。 明治に至り、大河内に復す。大河内信好、子爵を賜る。 |
8,松井流 − − 清和源氏 松井忠直の子 康親、松平の称号を賜う。
康任、国禁とされている密貿易(竹島事件)によって天保六年に強制隠居(石見浜田藩)させられる。
天保七年、その子 康爵、奥州の白川郡棚倉に移封。六万四百石。
慶応二年、周防守康直より 武州の川越 八万四百石、家紋 蔦。
9,在原姓 − − 三河国賀茂郡松平村の松平太郎左衛門家は、江戸時代に至るも特別な待遇を受けた。
四百四十二石。家紋、花輪に三葵。
10,清和源氏佐竹氏族 − − 常陸国久慈郡松平邑より起こる。
「佐竹氏 羽州に移る時、松平上総守 従い徒り、城 廃す」と。
11,奥州の松平氏 − − 田村郡黄龍館(美山村北鹿又)は、永禄年間、松平刑部大夫
住すとぞ。田村清顕公家記に「松平刑部太夫(北鹿又)」とあり。
12,他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る