|
|
解説 |
和名抄 陸奥国白河郡に松田郷、その他 相模 安房 上野
信濃 岩代などにこの地名あり。全国に25ヶ所あり。 栃木県足利市、高知県宿毛市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
|
1,秀郷流藤原姓波多野氏族 − −相模国足柄上郡松田庄より起こる。
東鑑、冶承四年十月十七日條に「波多野右馬允義常、松田郷に於いて、
自殺、子息 有常云々」とあり。
その族裔にして、尊卑分脈に
波多野三郎義通┬義常(経)−有経−政基−政綱┬政定 |
見聞諸家紋に、「 直違(すじかい)」と。
2,相模の松田氏 − − この氏の発祥地にして、上記 成家の後は、系図に
「宗栄−成栄(備後守)−頼高−直高(備後守、備前居住)−直頼−頼成−頼秀( 松田左衛門尉、公方の命により本国関東に下向)−顕秀−憲秀(松田尾張守、 小田原氏綱、氏康、氏政、三代の家老)−政堯」と。家紋 目引き籠。 |
3,平姓(藤原姓) − − ェ永系譜には平氏支流に収め「筑前守康定(初め備前、後
相模に移り、北條氏康に仕う)−兵衛大夫康長−市兵衛直長、家紋
二筋違」と。
されどェ政重修系譜には藤原氏に収め
「次郎有常の男 太郎政基の十二代孫 左衛門尉頼政の男
筑前守康定
−右衛門大輔康長、二男 肥後守康郷、家紋 直違、左三巴、鶴の丸」とあり。
4,武蔵の松田氏− − 大石系図に松田六郎左衛門尉頼貞、浅草寺、天文六年奉加帳に
松田盛秀など多くあり。
又、下総小金本土寺過去帳に「松田長九郎、江戸」とあり。
5,清和源氏新田氏族 − − 新田族譜に「額田弥三郎氏綱−生田弥三郎時綱−彦五郎頼持
−彦次郎政頼(松田)−松田与一政重(延文四年四月三日、矢口渡討死)」と。
6,上野の松田氏 − − 上野国志に「多胡郡吉井壘跡は、街の北あり。上州既に北條
氏に属し、その家長 松田尾張守康秀の村たり。天正十八年九月に至り、
菅沼小大膳康助に賜う」と。
又、幕末 小幡藩士 松田X興の弟 正雄は、勤王の志士なり。
7,奥州の松田氏 − − 各地に多し。
三戸郡櫛引八幡宮の神主に松田氏あり、神領千三十石なりし。
8,出羽の松田氏− − 関城繹史に「貞和三年四月、松田太郎も出羽立谷沢城に拠りて
官軍に応じ、結城顕朝に攻略され太郎戦死」と。
9,伊豆の松田氏 − − 古戦録に「田方郡山中城主、松田秀植(一説に重秀、康秀と記す)」とあり。
10,甲信の松田氏− − 信濃上伊那郡新町の人、松田三就は、儒名ありて黄牛と号す。
又、松田の人、松田和良は、武田氏の後裔なりと。その男 和厚は、
学深く福井松平氏に仕え功多し。
11,井伊氏族 − − 遠江の名族にして、井伊系図に
「井伊左衛門尉弥直−直時−直村(松田祖)」とあり。
12,尾張の松田氏 − − 松田豊前守定行は海西郡松田村に住み、海東郡を領すとぞ。
13,美濃の松田氏 − − 安藤氏の家老に松田鷹助あり。
又、当国の瑞龍寺山の砦は、慶長五年、織田秀信の家臣 松田十太夫 拠る。
14,蒲生氏族 − − 近江の名族にして、蒲生俊賢の子 俊基、松田を称す。一説に
「惟季の末子(惟俊の弟)俊基、松田六郎」と。
15,佐々木氏族 − − 佐々木系図に「京極高氏−近江守秀綱−家綱(松田) 家紋、三階松」と。
16,近江藤原姓 − − 守山の人 松田「孫太郎正氏(道秀)−藤左衛門(了栄)−四郎左衛門
−勝右衛門政行(前田玄以に仕え、後 家康に従いて、丹波桑田二千石を領す。)
−善右衛門勝政−善右衛門勝盛」なりと。家紋 丸に三頭の波(松田波)、
丸に三階松、十四葉菊。
17,伊勢の松田氏 − − 多くは第1項の族にして、
桑名郡片岡に松田右馬允 居住せしと云う城堡あり(三国地志)。
又、神宮社家にありて、社家系図に「松田(御炊物忌)、度会幸俊家系・魚名五男
藤成二十二代重幸の嫡男初代幸兼。同血系は、正慶(河村氏)の裔」とあり。
又、外宮本宮内人家筋書に「松田、秦、秀郷流波多野の裔」と。
又、晩翠先生松田君墓碑に「諱 重国、藤姓松田氏、勢州桑名に生る」と。
18,賀茂縣主姓− −江戸末期、上賀茂祠官にあり、松田伊予守直兄は 国学者として名あり。藤園と号す。
19,藤原姓公親流 − − 丹後の名族にして、注進丹後国 諸庄郷保惣田数目録帳に
「与謝郡豊富保十一町四反三百二十四歩内、一町八段・松田刑部左衛門、武行武光保七町
四段六十歩内、六反百四十四歩・松田三郎左衛門、伊禰庄二十八町七十四歩内、
二町三反三百四歩・松田刑部左衛門、物部葛保十二町九段四十四歩内、五町四反二百二歩・
松田三郎左衛門、丹波郡御厩保十四町四段百八十一歩内、一町八反二百八十八歩・
松田三郎左衛門、光富保十五町八反二百九十五歩内、九町五反三百五十一歩・
松田丹後守、二町九反二百十一歩・同九郎左衛門、一町三段三百七十歩・同彦八郎、
周枳保六十四町四段二百五十歩内、八町九段二歩・松田三郎左衛門、六町八段百八歩・
松田彦八郎、竹野郡是安保三町九反三百二十九歩・松田九郎左衛門、松吉保四町一段百十六歩・
松田九郎左衛門」とあり。
当国与謝郡日ヶ谷城(日ヶ谷村 天長寺背後の山)は、松田氏累代の居城にして、松田摂津守の嫡男
山城守頼通、天正十年九月に至り、細川氏に攻められて落城す、と。
この松田氏は、「藤原公親朝臣九代の孫 頼盛・俗名 松田八郎左衛門の後にして、その子
千年姫は、後宇多帝に仕う」と。
又、「山城守頼通は、頼盛十三世の孫、一色氏の家臣にして、その子を福寿丸と云う」と。
又、竹野郡堤村城(堤村)は、松田越中守の居城、吉沢城(吉野村吉沢)は、松田遠江守の居城、
黒部城(深田村)は、松田摂津守の居城也。
20,丹波の松田氏 − − 丹波志 天田郡條に「松田和泉、子孫 前田村。何鹿郡鴻ヶ嶽の古城内、
藤氏の居なり、古城の部に出づ。大権兵部、居所 同郡高津村なり」とあり。
21,大中臣姓 − − 和田系図に「(大中臣)大中大夫助平−散位五郎助顕−同八郎助時−助兼(矢田部、
松田の先祖)−助正−助綱(和田住)−助守−助遠−清遠−助家−助泰−助氏−助朝
−盛助(備前守)−助直(左近将監)−助量(左近将監)」とあり。
22,備前の松田氏 − − 第1項、松田十郎盛朝、承久の役、功ありて、備前の国に領土を賜う。
太平記巻十四に「備前国守護
松田十郎盛朝」とあり。
松田系図に「有経−政基(松田小二郎、左衛門尉)、弟 義基(二郎、伯州)−経基
−盛経−経朝−胤秀」とあり。
下って、「松田元成の男 左近将監 元勝は、臥襲山の地に拠りしが、永禄十一年七月、
宇喜多直家に襲われて戦死す」と。
23,室町幕臣 − −上記の族なり。家紋、二本筋交い、組み直違い。
御評定着座次第に「康暦元年六月二十五日、右、松田丹後守貞秀、至徳二年正月十二日、
松田丹後守貞秀、奏事・松田豊後守。同十二月十二日、御恩沙汰、松丹貞秀、松田豊前守、
同十七日 仁政御沙汰、松田丹州、披露奉行人・松田主計允。明徳二年正月十一日、松丹。
四月二十日、松田丹後守貞秀。応永七年十二月十九日 御判始評定、松田九郎左衛門尉」とあり。
又、永禄六年の諸役人附に「外様詰衆・松田七郎、奉行衆・松田丹後守藤弘、松田左衛門大夫頼隆、
松田主計允光秀、松田又次郎。三番・松田将監頼秀、奉行衆・松田九郎左衛門尉頼長、
諸大名御相伴衆以下・松田左衛門大夫、松田主計允、松田対馬守」とあり。
24,美作の松田氏 − − 伝え云う「当国英田郡江見の庄の上福原の比丘ヶ城は、松田伊賀守の居所と云う、
又、真庭郡栗原の松田氏は、備前の元勝の遺子と云う。当国赤坂郡の可真村に逃れ、後
この地に移りて、松久伝治郎政経と称し、子孫栄え、弘化中、本姓に復すとぞ。
又、久米郡桑上村の松田氏は、明智光秀の家臣 松田太郎左衛門の後にて、その末子 景順は、
丹後に移り、医を以って業とす。景順の孫 閑斎に至り、京極丹後守仕え、禄、百五十石を受く。
後、閑斎の弟 孫右衛門、峯山京極主膳頭に仕え、後、浪人して美作に来り医を業とす」と云う。
25,因幡の松田氏 − −伝え云う「明智光秀の家臣 松田太郎左衛門は、山崎の戦いの後、亀井氏に仕え、
当国に来ると云う。
又、鳥取藩士 松田主膳本生は、勤王家として名あり。
又、後世、鵜殿家臣 松田氏は、小田原の松田尾張守憲秀の裔と云う。その後、
久保市郎左衛門の男 八之進道之は、この松田家を継ぎ、明治十三年頃、東京府知事となり、
東京港築港論を提案す」と。
26,出雲の松田氏 − − 海東諸国記に「公順、丁亥年、使いを遣わし、来りて観音現像を賀し、書して
出雲州見尾関所 松田備前太守藤原朝臣公順と称す」と。備前の松田氏の一族にして、懐橘談に
「白髪城は、尼子晴久の妹婿 松田左近将監を大将として、その舎弟 兵庫頭など楯籠もる。
城の麓の常福寺と云う禅院は、松田の末子 不門西堂と云う悪僧、出丸を構え、一族四人楯籠もる。
本城より三町余り隔てて館あり、松田二郎 三郎是を守る。是を小白髪の城と云う。この城は、
北西に高山ありて、要害なり。弘治三年、毛利元就、当国発向の時、和睦し給えと、
書を遣わしけれども、用いず。城は ほどなく落ちにけり」と。
27,三宅氏族− −石見志に「己斐信時(豊後守、己斐豊後守の養子、石見国三宅信行
の二男)−松田信満(豊後守、後、左衛門、松田と改めて民間に落つ。
己斐の庄屋、慶長八年卒)−信好」とあり。
又、物部神社 下官最教役、下官祭田役などにこの氏あり。
28,備後の松田氏 − − 芸藩通志 世羅郡條に「松田某の宅址は 上野山村にあり、址の東に老松六株あり、
馬場松と呼べり」と。
又、「尾道久保町の松田氏、先祖 松田正房は、北條氏に仕う。後、禄を辞し、薙髪して
卜隠と号す。正応年間、遊行二代他阿に従いて、この地に来り、遂に常称寺内に住し 医を業とす。
他阿より阿伽陀円薬方を受け、世々 其方を伝う。故を以って子孫今に至って、遊行廻国の時は、
封内を従行す。文禄年間、卜隠は、豊太閤 これを呼みして、薬符 及び短刀を賜う。今にその家に蔵す。
今に至り世々 卜隠と称す」とあり。
29,安芸の松田氏 − − 芸藩通志 高田郡條に「古城 三ヶ所、一は 岩倉太郎左衛門、一は
松田内蔵介、
一は 尼子氏の所居と云う。留営せしなるべし」とあり。
又、佐伯郡條に「小西城。鬼崎、並びに鹿川村にあり。小西、一に やうとう城と称す。
堀城、麓城、並びに中村にあり。主名詳ならず、或いは云う、松田善之進の居所」と。
又、安西軍策に松田勘解由などの名あり。
30,加賀の松田氏 − − 三州志に「石川郡の田井城は、金浦郷田井村領にあり。賊将 松田次郎左衛門居りしが、
洲崎兵庫の為に殺されて、砦もまた陥つ。事は 本記 長享二年に詳なり」とあり。
又、加賀藩給帳に「四百石(丸の内に二膳箸)松田政吉、三百五十石(丸の内に二膳箸)松田清左衛門、
二百石(丸の内に二膳箸)松田九郎右衛門、二百九十石(タハネナツ)松田友次郎、五人扶持(井桁)松田常安」とあり。
31,日下部姓 − − 淡路の名族にして、日下部系図は、西郡四氏の一にこの氏を収め「吉行(日下部朝臣、
備前国橋本嫡男祖)−信行−頼行−道光(松田家中執権任)−秀孝−秀幸」とあり。
32,河野氏族 − − 伊予国桑村郡の名族にして、松田系図に
「河野通興、弘安中、蒙古賊を討ち 功を以って丹後の松田郡を賜い、よって氏とす。元弘中、
その孫 通氏、官軍に属して、伊予に移りて、桑村郡吉岡郷を領す」とあり。
33,豊後の松田氏 − − 当国大野郡に松田の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。
34,肥前の松田氏 − − 太平記 巻 三十三に「少弐方の将に松田弾正少弼」とあり。
又、大村藩士系録に「松田(浜田)、藤原秀景(松田信濃守)の後」とあり。
35,九州南朝の松田氏 − − 太平記巻三十三に松田丹後守、同 出雲守などあり。征西将軍の宮に従いて勤王す。
36,筑前 筑後の松田氏 − − 伝え云う「元暦の頃、西久留米の長者に松田氏あり、久留米城に拠る」と。
又、幕末、怡土郡長野邑子負原八幡宮の祠官に松田五六郎安定(初め、久我靱負、中原氏、出羽守、
筑前志摩郡桑原村の士)あり、勤王家にして、贈従五位。
37,薩隅日の松田氏 − − 日向記に「松田摂津介」の名あり。
又、伊東藩の用人に松田氏あり(武鑑にあり)。
又、伝え云う「谷山郷士に松田氏ありて『源義家の四男 義忠、相州の松田郷に居りて、
松田四郎と称す、その裔なり』」と。
38,肥後の松田氏 − − 細川家臣に松田彦次郎重秀あり、
又、幕末、松田重助範義(波多野右馬助)は、勤王家にして、贈従四位。
39,幕臣 − − ェ政系譜に
「藤原流、忠久(元禄十年 召されて御廊下番となる、云々)−忠恒−忠勝−忠住=利有、
家紋、丸に三櫛松、丸に三柏」と。
又、「藤原流、充信(家宣に仕う)−知如−充行−茂苞。家紋、丸に勝男木、左巴」と。
その他、家紋が(二筋違、左三巴、鶴の丸)。(二重直違、松の丸、白羽矢車)。
(丸に三頭の波、丸に三階松、十四葉菊)。(筋違、鳩酸草)の松田氏あり。
40、他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る