丸   山(マルヤマ)

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす

分派氏族

 

1,藤原姓勝間田氏族 遠江国発祥なり。新編風土記に「丸山氏(雨間村)。系

       譜損じて読み難ければ詳なること知れず。唯その世代を記すのみ。

       三十一代勝間田弾正忠光時、遠州東郡に居城せしが、永享十一年、足利

       義教、鎌倉持氏の両将軍不和の時、箱根において攝戦すとあり。光時よ

       り三世 左京亮宗秋に至り、姓を丸山と改む。二子あり、長男を備後守

       光兼と云い武田家に属し、信州曳の城主たり。この子孫今 松平伯耆守

       の家に給仕す。宗秋の二男 筑前守光言、遠州掛川横須賀に居城し、

       小笠原長時に属し、天文十八年四月二十二日、信州鳥居峠にて戦死すと

       載す。甲陽軍鑑には同年 海野平において戦死の由を載せて、家系とは

       異なり、光言に二男あり、長男は弥兵衛尉光則、次は兵部太夫定吉と

       云う。光則ゆえありて氏を丸茂と改め、武田家に属せしおりから賜りし

       文書あり。子孫 甲州山梨郡八幡大工村に住せる丸山勘三 所蔵す。

       云々。光則に二男一女あり長男は勘三光直、次は伝三郎光定、兄弟共に

       東照宮へ召し出され、一女は新館尼に従い当国に来たり、後 剃髪して

       当村 斎洞庵にて没す。天正十年七月、北條氏、川浦口より切入りし時、

       光直光定の兄弟の働きにて、藤の木まで切り返せし戦功によりて、同年

       十二月、兄弟共に本領の御朱印を賜う。一通は勘三の子孫の者 甲州に

       て所持せり。伝三郎へ賜う所の御朱印左の如し云々。この伝三郎、御

       小姓に召し出されしが、故ありてお咎めを蒙りしを横田次郎兵衛、成瀬

       伊豆守などの申しなせしによりてご赦免ありしが、その後いかなる故

       にや。父 弥兵衛尉と同じく、当国府中高安寺に至り、住僧によしみ

       あれば、ここに寓居せしが、弥兵衛尉は病にて死せり。伝三郎は名を

       彦右衛門と改め、後 入道して宗玖と号す。天正十八年、小田原御陣の

       せつ、召しによりて井伊直政の陣中までまいりしに、直政の計らいにて

       お目見えの上、伝来せし御系の巻 御用の由、台命を蒙り、お使い設楽

       神三郎以ってささげ奉れり。その後 同人お使いにて、同年八月御朱印

       を賜う。その後 小宮領小川村に移り、慶長四年又 今の雨間村に移住す

       と云えり。宗玖に三子あり、長男は、左京進宗久、東都に出でしが事蹟

       詳ならず。二男彦右衛門宗春は、その家を相続せり。三男惣三郎吉重、

       これも東都に出づ。その詳なるを知らず。宗春に二子あり、長男を

       小右衛門宗重と云い、次を三太夫光家と云う。ェ永十六年故あって田禄

       をさきて、小右衛門にさきて分けてり。後 二男三太夫、父の後を継ぎ

       て名主をつとめ、両家共に代々帯刀いたせしが、明暦三年、御代官近山

       五郎左衛門より彦右衛門へ賜いし書にも、由緒ありて先年より帯刀いた

       し来たりし由、明白に付き帯刀勝手次第、又、惣百姓など取り治めし由

       を載せ、又、ェ文七年、曽根五郎左衛門 検地のせつ、給いし書にも、

       『源兵衛、小右衛門事、由緒明白、以って帯刀くるしからず、且つ

       源兵衛事、村内は勿論近村まで、検地御用相勤めしこと神妙に付き、

       折りを以って公へも達すべき由』を載せたり、この外 地頭より給いし

       文書数通を蔵せり。筑前守より今に至りて十二世を経るとなり。名主も

       この家にて勤めしが、いつの頃か小右衛門の家に譲れりと云う」と。

2,清和源氏加賀美氏族 甲斐国巨摩郡の名族にして、上條東割丸山より

       起これるかと云う。

       一蓮寺過去帳に「丸山若狭、永正九年十月八日」と云うを載せ、

       又、加賀美氏の族なりと伝え、丸山但馬守などあり。

3,甲斐の丸山氏 第一項氏は、甲斐国志などに「丸山筑前守勝道の子 弥三郎は、

       天文中、当国に来たり、丸茂弥兵衛勝重と称す」と伝えたり。山梨郡

       大工村の名族にして、一に丸茂と云う。以前、東山梨郡八幡村大工組に

       丸山朝久氏あり。

4,清和源氏武田氏族− 信濃発祥の名族、武田安芸守信満の後にして、弾正忠清昌

       を祖とすと云い、清昌は室町時代 諏訪郡に居住せしとぞ。

       又、同国筑摩郡下生坂城(下生坂村)の城主に丸山丹後あり、安曇郡

       日置の幕下にして、日置落城後 没落すとぞ。

5,上野の丸山氏 吾妻郡の名族にして、国志に

       「那ヶ尾丸山城、那ヶ尾刑部左衛門、丸山民部大夫など拠る」とあり。

       又、当国山田郡に丸山村あり、この地より起りしもあらん。

6,常陸の丸山氏 新編国志に「丸山、瓜連常福寺過去帳に『寂月、慶長十六年

       九月十八日、大里丸山隼人』とあり。大里は久慈郡にあり」と。

       後 丸山雲平可澄(仲勝・雲泉)あり、活堂混斎と号す。光圀に仕えて、

       大日本史の編纂にあたり、又、諸家系図纂三十巻の著あり。

7,岩代の丸山氏 新編風土記、会津郡原組原村條に「守屋神社神職丸山主計、

       先は喜膳某と称す、今の主計某は五世の孫なり」と。

       又、耶麻郡千里村の人に、丸山二郎あり。国史大系校訂を成す。

       越後新発田より来たれりと伝うとぞ。家紋、丸に木瓜。

8,越後の丸山氏 古志郡栖吉城(栖吉村)は、謙信の外祖父肥前守顕吉の居城

       なるが、越後野志には「城主は志賀小左衛門春清なり、その老臣に今井

       彦右衛門、丸山掃部、志賀新兵衛の三人あり。丸山叛き、橡尾城主

       宮島三河守の兵をいれ、城を奪う」とあり。

9,藤原南家 工藤氏の族にして、ェ政系譜に「丸山市左衛門友重(家康家臣)

       −友勝−友正、弟 文右衛門友次(二百石)。家紋、藤の左巴」と。

10,三河の丸山氏 額田郡丸山村より起こる。当村に城三ヶ所あり。榊原式部、

       成瀬伊賀守、丸山中務等の居所なりと。この丸山氏は上記一項と同一か。

11,嵯峨源氏 寺内氏の裔にして、ェ政系譜に

       「寺内宗悦−法眼玄棟−宜喬。家紋、丸に扇」と。

12,赤松氏族 美作国久米郡福田村丸山邑より起こる。赤松則村の末裔

       左衛門尉宗宣、この地に城き、永禄二年、三月二十七日卒しす。後

       宇喜多直家の将 岡平内家利の為に落城す。その三男 兵庫頭宗之は、

       三星城に逃れ、後藤勝基を頼る。天正七年に至り、三星城も落ち、

       河井庄 小井原村に隠るとぞ。

       その裔か。英田郡中川に丸山氏。又、神田村庄屋に丸山豊七あり。

13,備後 安芸の丸山氏 鎌倉の初め頃、厳島に丸山九大夫と云う者ありて、

       射術に妙を得、頼朝 富士の狩に従うと云う。又、御調郡の名族に見え、

       芸藩通志に「丸山大膳は、向島西村 丸山壘に拠る」と。

14,筑後の丸山氏 三潴郡大原の名族にして、慶長元和のころ、

       丸山治部右衛門勝政あり。

15,室町幕臣の丸山氏 丸山孫三郎、丸山掃部助、などあり。

       家紋、丸に竪三つ引き

16,他


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る