間   宮(マミヤ)

解説

数流あり

埼玉県浦和市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,佐々木氏族 伊豆国田方郡間宮村より起こると云う。佐々木系図に

       「行定(佐々木宮神主)−行範(真野、舟木、間宮)−舟木太郎時信

       −太郎信光−信景(間宮祖)−景泰(間宮)、弟 信有(間宮)」と。

       又、間宮系図に「萬石五郎大夫行定−散位定通−真野源二定時

       −石橋太郎定範、弟 六郎時信−太郎信光−孫太郎信景(右衛門尉)

       −新左衛門信行−信重−新左衛門信冬(間宮を称す)」とあり。

       家紋、角四目結、五三の桐。

       又、その後裔と思われる者あり、「豊前守信盛(宗三、北條早雲 氏綱

       に仕う)−豊前守信元−豊前守康俊(伊豆山中城守将、天正十八年戦死)

       −彦三郎康次(弟 新左衛門康信 天正十年甲州討死)−新左衛門直元(

       家康家臣 千石)」。

2,武蔵の間宮氏 橘樹郡川崎壘(砂子町)は、宗三寺境内の辺なりと云う。

      上記 間宮豊前守信盛が居住せし所にて、墓は宗三寺本堂の西南に当たる

      樹下にあり。碑面に「当寺(宗三寺)開基、雲谷宗三居士」と刻し左右に

      「宇多天皇皇子 敦実親王十六代 佐々木間宮豊前守入道源信盛」とあり。

      側面には「天和三年三月二十九日、施主 間宮孫兵衛盛重、同 金五郎盛正」

      と彫る。この盛重 盛正は父子にて、共に大番衆なりしが、盛正 後に乱心

      して家廃せり。      

      又、風土記稿に「久良岐郡松本陣屋(松本村)は、金沢道の傍、小名笹下

      にあり、平地にして今は陸田となれり。広さ八段ばかり。按ずるに間宮

      家伝に云う『豊前守信元(盛頼とも、正綱とも)・小田原北條家の総先手

      の大将にて、武州久良岐郡佐々木城主たりし』と。村内 安房洲明神の

      由来記にも『間宮豊前守信元、この辺に在城す』といえば、この跡は信元

      の遺跡にして、今 笹下と称するは佐々木の転語なるべし云々」と。

3,清和源氏武田氏族 家譜に「真里谷信濃守信次−兵衛尉直信−助左衛門信正

      −善九郎(外祖父 間宮主水佐繁辰の家号を名乗る)−諸左衛門正次

      −三郎左衛門信秀−播磨守信明−諸左衛門信盛」と。

      家紋 四目結、五三桐、割菱。

4,下総の間宮氏 − − ェ政系譜に「平姓、豊前山城守基頼、鴻台戦死、男 山城守氏盛、武州鷲宮に住す。

男 九郎元盛、母(間宮豊前守康俊の娘)の氏を冒す」と。

ェ永系図には 元盛を長九郎信次とし、康俊の四男 伝右衛門元重の子とす。家紋、

四目結、五三の桐。

5,常陸の間宮氏 − − 新編国志に「馬見谷(又、間宮に作る)、戸村本に、馬見谷宗三は、本苗 佐々木氏なり。

上杉氏に仕えて画をよくす。佐竹義仁、当国へ養子の翌年 来り仕うと云う。義仁も画をよくし、

鳴鶉の名あるは、宗三に学ばれし」とあり。

又、「間宮林蔵倫宗は、当国筑波郡平柳村の人にして、父を庄兵衛と云い、箍工を業とす。

倫宗、天資頴敏、材力人を絶す。寛政八年、二十歳の時、江戸に至り、普請役雇を以って

幕府に仕う。二十二歳、村上島之丞に従って松前蝦夷島に赴く。後、しばしば行く。

文化三年春、倫宗と松田伝十郎二人をして、奥地を探らしめしも、猶ほ その極界

及ばずして帰れり。その秋、倫宗一人、命を奉じ、山に梯し、海に航し、難苦遂に屈せず、

ヲロッコ、スメレングルの地を経て、この島の北界を極め、海を越えて東韃山旦に入り、

その假府徳棱哩に至って、清国の官吏に接し、冬十一月 松前に帰着す(東韃紀行)。

間宮海峡の名、よって 起る」と。

又、水戸の国学者に間宮又左衛門永好(松屋)あり。

6,甲斐の間宮氏 ェ政譜に「佐々木高綱の胤 間宮八郎五郎繁信、その男 繁辰、

       武田信縄・信虎に仕え、その男 繁氏、信玄に仕う、その男 繁高、その

       男を繁義、信高の二人とし、信高、実は間宮豊前守康俊の四男なり」と。

       信高、後に家康に仕え、千二百石。その男は、高則なり。家紋 四目結、五三の桐。

7,三河の間宮氏 中山村 古屋敷は、間宮造酒允、畠村古屋敷は、同権右衛門の

       居所なりと。間宮権太夫直綱は、永禄六年、今川氏を去り家康に仕え、

       本郡にて千百七十六石を領し、畠村に住す。その子 広綱なりと。

8,他


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