草   刈

解説

岩手県紫波郡紫波町、千葉県市原市にこの地名あり。

 

1、用明天皇後裔 因幡志に「草刈は用明天皇より五十代伝わりし名家、その初め美作作国

     勝北郡勝加茂より起こり、東北條郡を切り従え、大永の頃、当国に手を出す」とあり。

2、仁徳天皇裔 美作国吉野郡西粟倉庄 坂根村里正 所蔵記録に「人皇十七代 仁徳天皇の後胤

     加賀守従五位下 衡継、天文年中、作州東北條郡賀茂郷高山城を矢筈山に築きてここに居り

     因幡国知頭郡、作州東北條郡、英田郡、勝田郡等を領地す。足利義晴公に因幡国守護職に

     補せられ、天文十三年、従五位下に叙せらる。同年、後奈良帝より十曜の紋を賜う。故に

     家紋九曜を止め、十曜を以って家紋となす。三郎左衛門尉景継が、草刈明神とおくり名

     せらるは、これなり。衡継の嫡子なり、高山城主となり、領地は衡継に同じ。家督相続の時

     足利義輝公より御内書を賜う。草刈次郎重継は、後に太郎左衛門と号し、その後 対馬守に

     任ぜらる、衡継の二男なり。兄 景継の家督を相続して高山城主となり、領地は景継に同じ。

     右 草刈三代、高山在城の間の儀これを略記す。正徳五年十月二十七日。草刈利見判」とあり。

3、秀郷流藤原姓 美作国東北條郡三輪庄百々村 農民 清蔵家蔵覚書に「美作国東北條郡百々村

     城山の古城は、明徳二年、鎮守府将軍藤原秀郷 十六代 草刈備前守従五位下 藤原氏継、

     軍功に付き公方 足利義満公より本領の他、作州 苫郡を賜り、その節、この城を築く。

     又、その後 天正の頃、右 備前守十代 草刈対馬守宣継、代々の一族 黒岩土佐守、中西杢允

     草刈左近、進市兵衛尉の四人相守る。天正十一年十二月、旗頭 毛利輝元卿 お指図に付き、

     草刈家 抱え残らず退城つかまつり、信長公へ渡し申し候」とあり。

4、宇都宮氏族− −斯波家に従いて奥州に下る。子孫。大崎家、最上家に仕う。氏家基進を祖とすとあり。

     後、羽前天童家の配下の将に草刈将監あり、天正中、山形と天童と闘争の際、天童頼澄方の

     大将たりしが、延沢能登守が謀反するに及び宮城に逃げる。

5、他


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