栗   田

解説

美濃国本巣郡、大野郡に栗田郷あり。

又、筑前国夜須郡に栗田郷、後世 栗田村あり。

その他、信濃、若狭、丹後などにもこの地名あり。

 

兵庫県揖保郡新宮町、山口県厚狭郡山陽町、徳島県徳島市、

愛媛県伊予郡中山町、宮崎県西都市にこの地名あり。

尚、岩手県紫波郡紫波町のは「クリノキダ」と読む。

 

1、清和源氏 村上氏流 信濃国水内郡栗田村より起こる。尊卑分脈に

     「村上顕清−為国−ェ覚(戸隠別当、栗田禅師)−仲国(栗田太郎)」と。

     中興系図に「栗田、清和源氏、陸奥守頼清これを称す」とあり。

     代々 善光寺の別当なりしも、戦国時代には兵馬に携わり、武田氏に従い、上杉方と戦う。

     北越軍記に「永禄三年七月、信玄方 栗田淡路守国時と、宇佐美定勝と、信州野尻口にて

     度々せり合う。宇佐美 勝ちて栗田を追い込み、善光寺へ押し入り、如来を分捕して帰る。

     栗田、色々懇望し、八百貫の知行を如来に替え、再び善光寺に安置す」とあり。

     又、編年集成に「善光寺別当 栗田鶴寿丸は、武田家に属し、遠州 高天神城に篭城して

     天正九年三月、落城の時討ち死し、五月その子 永寿丸は感状を賜う」とあり。

     その後、上杉景勝、川中島四郡を併合す。

2、上杉家の栗田氏 上杉景勝 家中侍記に栗田刑部少輔あり、刑部は、越後上杉家に仕え、

     一時、庄内にも居り、慶長五年の春、故ありて会津を立ち退かんとし、白川に打留めらると。

3、桓武平氏 伊勢氏流− −伊勢国の名族にして朝明郡の縄生城主なり。伊勢新九郎氏綱の末葉と称す。

     天正年間、栗田監物秀景あり、秀重とも記す。縄生城を居守し北畠氏に属す。永禄中、

     北畠信雄、柘植三郎左衛門、日置大膳等に命じて、これを攻めしむ。監物 敗れ遂に城を

     焼きて自殺す。一説に天正五年滅亡とあり。

     又、員弁郡大井田城は、栗田左衛門佐の居城なりしと云う(桑名志)

4、紀伊の栗田氏 当国の名族にして、続風土記に「日高郡萩原村栗田社は、崎山氏の被官

     栗田次郎の戦死せし、その霊を祀る」とあり。

5、丹後の栗田氏 当国与謝郡栗田村より起こる。栗田内膳正あり、浦明村に居城す。この山を

     山取山と云うとぞ。

6、桓武平氏 川崎氏流− −常陸国那珂郡の名族にして、伝説によれば下小瀬の古城主 川崎氏の分流

     川崎二郎の後胤なりと云う。茨城郡六地蔵過去帳に

     「妙秀(栗田又次郎内方)、妙珍禅尼(栗田新四郎母儀)、妙春禅尼(栗田右京亮母儀)

     道春(栗田伊賀守)、清金(栗田内方、伊賀守娘)、道空(栗田又三郎)、妙可(栗田神五郎母)

     妙運(神五郎妻)」とあり。家紋、丸に二ッ引、女紋、九曜の星。

7、岩代の栗田氏− −新編会津風土記、大沼郡玉梨村條に「鹿島神社神職 栗田薩摩、小栗山村に住す。

     伊勢某と云う者、始めて神職になり十二世を経て今の薩摩重春に至る」とあり。

8、仙北の栗田氏 小野寺遠江守義道の家臣に栗田市介あり。

9、加賀藩の栗田氏 加賀藩給帳に「二百石、紋 丸の内に松皮菱、栗田伝兵衛。百五十石、

     紋 丸の内に松皮菱、栗田八十郎。三十五俵外七人扶持、栗田幸作」とあり。

10、他


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