栗   原

解説

和名抄 遠江国敷地郡に驛家郷(栗原驛)あり、甲斐国

巨摩郡に、栗原郷を収め、久利波良と註す。

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

国土基本地図に34ヶ所あり。

分派氏族

 

1,清和源氏武田氏流 甲斐国山梨郡栗原村より起こる。武田系図に

       「十一代刑部大輔信成の子 武続(甲斐守、栗原十郎)−巨海(オオミ)

       出羽守信通−出羽守信明−民部少輔信遠−伊豆守信友−伊豆守信重

       −半五郎信方に至り、又栗原に復す。家紋、割菱」と。

2,清和源氏義忠流 家伝に源 義忠の裔と云う。ェ政系譜に

       「家紋 菱井桁に三文字、丸に井桁」と。

3,諏訪神家族 諏訪系図に「敦貞−敦家(検校)−家貞(栗原四郎)」と。

       又、千国村(千国城)は、栗原道中の居城と云う。

4,武蔵の栗原氏 埼玉郡大井村の栗原氏は、先祖を栗原大学助と呼んで、

       成田下総守氏長の家人なり。家に同人より与えし文書二通を蔵すと。

5,武蔵甲州流 − − 新編風土記に「入間郡の栗原氏(二本木村)は、先祖は甲州の武田氏に

       仕えしが、武田滅亡の後、当所に来り住せしより、世々ここに居ると云い、

       先祖 右馬助某へ、北條の家人より与えし文書あり」と。

       又、「多摩郡の栗原氏は、上椚田村小名大平に住せり。先祖は栗原彦兵衛と号し、

       武田氏に仕えしが、永禄の初め、故あって多くの家人を具し、甲州を去りて当国に

       来り この所に蟄居す。山間にて耕作の地なければ、炭焼の業をなせしに、その頃は

       山々に定まれる持主もあらざれば、山続き三 四里の間を己の物とし、家人どもに

       専らこの業をなさしめありけるに、彦兵衛は甲州に於いて筋目ある者なればとて、

       北條家より招かれしが、それにも応ぜざりしゆえ、それならば百姓せよとて 耕作の

       地を賜り、そのうえ炭焼司に命ぜられ、家中の焚灰をぞ出しける。かくする内に

       従いし者も、追い追い土着の農民とはなれる由。(家康)御打ち入りの後までも、

       子孫なお大平山の下木を以って炭に焼きて、八王子に出し、ひさげるに、ェ文の頃に

       至り、その山も収公せられしゆえ、ついにその業も止みぬと云う。今に至り、

       小屋場谷と呼べる所に 昔の炭釜三ヶ所存せり。子孫由緒あって千人組となりてより、

       今もしかり。先祖彦兵衛、北條氏より賜りし文書二通を蔵せり」とあり。

6,桓武平氏千葉氏流 − − 下総国匝瑳郡に栗原郷あり。

       千葉系図に「新介胤正の子 観秀に栗原禅師」とあり。

       又 小金本土寺過去帳に「栗原彦太郎(長禄)、栗原彦太郎(延徳五年)、栗原彦六(明応)、

       栗原左衛門」などの名あり。縁故あらん。

7,秀郷流藤原姓 − − 陸前国栗原郡栗原郷より起りしか。伊達世臣家譜略記 大波氏條に

      「秀郷の裔、栗原近江守持成、応永中、奥州諸郡の鎮守となり 来りて信夫郡に住む」と。

8,美作の栗原氏 真嶋郡の栗原郷より起こる。南三郷党の一にして、元弘の際 勤王す。

       古城記に「栗原城は、栗原氏 世々ここに居る」と。

       又、「手谷堡は、中村にあり、栗原氏の居所」と。

9,備後の栗原氏 − − 芸藩通志 御調郡赤城山條に「一説には栗原豊後の城跡なるべしと云う。

       按ずるに、豊後は千葉氏にして、関東より来りこの辺を領せしゆえ栗原とも称し、

       村内にその墓もあれば、この跡は彼の所居にてあらんか」とあり。

       又、「賀茂村栗原氏。先祖は浦壁山城主 栗原河内の弟 直胤に出づ。その子孫、世々

       里職となり、今の藤四郎まで十世」とあり。

       又、「世羅郡賀茂村の浦壁山堀 城主は、栗原河内元胤の所居なり」とあり。

   *第6項の族と思われる。名前の「胤」は、千葉氏の「通字」。

10,安芸の栗原氏 − − 芸藩通志に「広島府、竹屋町の栗原氏、先祖 栗原主計、これ竹屋町人家の

       始まりなりと云う。慶長の頃には市兵衛と云える者ありと見ゆ。家伝記なく、世代

       詳ならず、今の次兵衛 農民たり」とあり。

11,筑後の栗原氏 筑後国史に「当国上妻郡矢部村の栗原城は、五條左馬頭

       家臣、栗原伊賀守 代々の居城なり、子孫 民家にあり」と。

12,他


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