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久 米(クメ) |
開設 |
来目に同じ。久米氏は、久米部の首領、及び久米部(軍事 刑罰を職とせし)が住居せしより起こりし久米村に、 第二次的に 発祥せし氏なり。 青森県黒石市、新潟県柏崎市、長野県飯田市、千葉県成田市 埼玉県所沢市、愛知県常滑市、岡山県岡山市、同 総社市、 山口県徳山市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,藤原姓 − − 肥後球磨郡に久米郷あり、久米氏の発祥地か。
相良文書、肥後国球磨郡田数領主などの目録に
「人吉庄云々、藤原真宗、字久米三良。公田九百丁、豊富五百丁、
地頭 藤原真宗、字久米三良云々」と。
2,淡路の久米氏 − − 文明二年、護国時結番定書に「三番久米殿」又、長禄の
寄進状に「久米四郎左衛門入道道珍、久米四郎右衛門尉家守」などあり。
3,周防の久米氏 − − 当国都濃郡に久米郷あり、この地名を名乗りしもあらん。
東鑑、文治三年四月二十三日條に「周防国人 久米六郎国真」とあり。
4,伊勢の久米氏− −当国員弁郡に久米郷あり 後世久米村と云う。皇太神宮儀式帳に
「天智天皇御代、甲子年を以って小乙中、久米勝麻呂に、多気郡の
四ヶ郷を申し割きて、高飯野高宮村に屯倉を建てて、評督領として仕え
奉らしめき。即ち、公郡となす」と。
5,三河の久米氏 − − 額田郡の名族にして、久米新四郎は、丸山村の丸山城に拠ると云う。
又、八名郡和田村の八幡宮の神主に久米氏(集説)ありと。
6,児玉党 − − 武蔵の名族にして、新編風土記 児玉郡條に「久米氏代々 六右衛門を通称とすれど、
松之助は、今尚幼弱なれば、幼名を改めずと云う。昔、先祖 児玉六郎時国、僧
日蓮に
帰依す。文永八年十月十三日、日蓮佐渡へ流されし時、時国の家に宿す。その後、
赦免ありて帰国の時、時国送りて入間郡久米村に至る。日蓮、厚志を感じ久米川の水を
酌みて、一幅の曼荼羅を写してこれを与え、誓って云う、汝の子孫 長久ならん事、
この水流の如きことあらんと。よりて改めて久米と号すと云う。年代遷りて、系図、
記録も失いたれば、由緒の詳かなるを知らずと。按ずるに児玉は、七党の一にして、
七党系図にも載る所なり。時国と云う人、総て三人あり。久下塚三郎時国、蛭川太郎
右衛門時国、阿佐美新左衛門時国等なり。これ皆 平氏 村岡五郎の支流にて、年代は
文永の頃なるべきにや。この三人の内、児玉六郎と同人ありや。又は、児玉六郎は、
七党系図に脱せし人なるか。かかる旧家なれど、家系記録も失いて、その詳なることは
知るべからず。僅かに天正十八年 加賀大納言利家より、中古の祖、久米大膳へ出せし
文書一通のみを蔵せり。これも本書は失いて、その写しなり」とあり。
7,平姓村山党− − 武蔵国入間郡久米庄より起こる。村山党の一にして、七党系図に
山口六郎家俊−小七郎家高┬家時(久米)┬泰家―┬家盛 |
家時は、承久記巻四に「くめの左近」とあり。即ち、左近将監家時なり。
8,桓武平氏梶原氏流 − − 讃岐の名族にして、梶原景時の後裔と称す。
9, 藤原南家二階堂氏流
− −
出羽仙北の名族にして、飯詰城に拠る。
二階堂出羽入道の末裔にして、小野寺遠江守義道の家臣なり。
10,清和源氏小笠原氏流 − − 阿波の久米氏にして、源姓小笠原氏より出づ。小笠原長清十世の孫
三好長輝(又、之長) 伊予の国の喜多郡久米庄を領して氏とせしなりと。後、三好郡
加茂村を領し、移りてここに居る。系図は
小笠原義長−義基−長輝┬元長(三好氏) |
「天文二十一年八月十九日、三好義賢、細川持隆を殺するや、名東郡芝原城主
久米安芸守義広、主君の為に復仇を謀りしも、衆寡敵せず。槍場に戦没す。二子、
播磨の赤松氏に寄り、後、天正十一年、豊公の四国征伐の時、豊臣秀長に従い、
名東郡高輪村辺を賜り、蜂須賀氏に仕え、赤松氏を称す。この久米氏の紋は、
二引両十文字。今、徳島市寺町善覚寺境内に義昌
建立の板碑あり」と云う。
11,清和源氏佐竹氏流 − − 常陸国久慈郡久米郷より起こる。佐竹系図に
「義治(右馬頭)の子 義武(久米三郎)」とある、これなり。義武は、
義治の三子にして、三郎二郎と称し、久米城(一名 小爪城)に居る。
文明十年十一月、山入義継、援を那須資持に乞いて、久米義武を小爪城
に攻む。佐竹義治、兵を出してこれを救う。二十三日城落ち、義武死す。
義継、陣を久米に留め勝利を古河に報ぜしむ。間もなく、義治、義継を
久米に攻めて、これを殺す。然れども義継の弟 義真、嗣となり、国安
城に居り、また義治と抗争すと云う。
12,他
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