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解説 |
紀伊の熊野は 上古一国を形成して、熊野国と云う。 出雲国意宇郡に熊野の地ありて、熊野大社鎮座す。その中間なる 丹後に熊野郡ありて、熊野神社鎮座せらる。又 近江国伊香郡に 熊野南庄 北庄ありて、熊野神社あり。其の他 天下に熊野社 甚だ多し、大概 紀州熊野三社を勧請せしものにして、かくして 起これる熊野なる地名は、全国に少なからず。 |
分派氏族 |
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熊野別当系図 − − 尊卑分脈に「藤原師尹−定時−実方(陸奥守)−長快(熊野別当)
−湛快=湛増(源為義の子)−湛全(承久の乱 京方となり、一方の大将を
賜いて合戦を致すにより、関東に於いて誅さる)−湛祐−源湛」と。
1,小田氏流 − − 常陸国筑波郡に熊野神社あり、弘安勘文に「筑波云々、熊野ノ保」
と見える地なり。
筑波別当潤朝の申状に「叔父 熊野別当朝範云々」と。
又、永享後記に「永享十三年、小田の一門 熊野別当朝範、その兄 筑波
法眼 玄朔、弟 美濃守定朝、同 伊勢守持重云々」と。
2,石見の熊野氏− −那賀郡木都賀村、枝熊城主に熊野兵庫亮久忠あり。安西軍策に
「熊野城主 熊野兵庫助」とある者にして、物部氏の族 熊野氏か。
陰徳太平記に「永禄二年七月兵庫介、同次郎、毛利を大田に迎え討つ
云々」と。
3,安芸の熊野氏 − − 安芸郡中野村に熊野氏あり、芸藩通志に
「嘉禄元年、熊野若狭、甲斐国より来たり。阿曾沼氏に仕う。その後
太郎兵衛、長門に従い行き、弟 左近は、農となる」と。
4,下総の熊野氏 − − 松山神社は熊野の神を祀る。祠僧を光明院と云い、宮本村にありて、
文和二年の古鐘を蔵す。銘に「匝瑳南條荘 熊野山若一王子権現宝前」とあり。
東鑑文治二年條に「匝瑳南條荘 熊野領とあるもの、即ちこれなり(地理志料)」と。
5,讃岐の熊野氏 − − 全讃史、元山村の大熊城條に「大熊丹後守 及び備前守ここに居る。
熊野清光の胤なり。熊野別当湛増の裔なるが故に 大熊を以って氏となす。
十河氏の麾下なり」とあり。
6, 陸前の熊野氏
− − 名取郡熊野堂に熊野新宮あり。封内記に「熊野新宮、社領三十石、
祭料稟米三石五斗、毎年九月九日祭礼、流鏑馬あり。神主二人、社家七人、
流鏑馬射手二人、名跡志に云う『新宮、本宮、那智、これを三山と云う』と。
今これを地理に考えるに、即ち、新宮、本宮の両社は、この村にあり、那智は、
即ち、吉田にあり。この地にては、証誠殿を新宮となし、西宮を本宮となし、
若宮殿を那智となし、三社を建ててこれを祭る。側に老女宮あり、学頭別当を以って
新宮を司り、九月九日を社日となす。本宮これを薬師堂と云い、五郎右衛門なる者
これを司り、四月八日を以って祭る。那智を高館権現と云い、観音堂あり。別当を
物響寺と云い、禰宜を次右衛門と云い、六月十日を社日となす云々」とあり。
7,中原氏流 − − 近江国高島郡に熊野村あり、神名式所載 熊野神社のその付近に
鎮座するを見れば、古代 熊野直の族人が熊野神を奉祠したる地ならん。
後世 当国 中原氏の族にこの氏ありて、中原系図に
「薩摩大夫仲平(甲良庄住宅)−甲良中太信仲−某(中八兵)
−多賀中九郎真平−某(熊野左衛門尉)−持成(三郎)」と。
8,中臣姓− −和田系図に「大中臣助平七世孫 貞親−宗滋(熊野馬允)−仲義」とあり。
9,他
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