工   藤

解説

伊豆伊東家の宗族にして、藤原南家と称す。その名称の起こりに

付いては、分脈、日向記などに、「藤原氏の木工たるによりて、

家名を始めて工藤と称す」と、あるに従う。

分派氏族

 

1,伊豆の工藤氏 河津の項で記したように、二階堂系図、河津系図、天野系図

            尊卑分脈、に於いて系図によりて、伊豆に移りし頃の藤原氏が

            伊東をなのりし頃の部分で、多少説を異にする。

            尊卑分脈に

   「為憲=時理−維景−維職−維次−家次−祐家−祐近−祐道−祐成」とあり。

2,駿河の工藤氏− 天野系図に「維清(駿河守)−維仲(工藤大夫)、弟 清定

       −景澄(入江権守)」と。

       又、太平記に「入江庄の住人 工藤左衛門尉春倫あり、兵一百を以って

       足利氏を救う」と。

3,遠江の工藤氏 相良系図に「時理の弟 時文−時金(遠江 工藤祖)」と。

       又、「時金の兄 維兼−周時(遠江 工藤大夫)」と。

       その後 工藤信濃守祐光は、宝治二年に、佐野郡原の谷を領すとぞ。

4,甲斐の工藤氏 武家系図に「工藤次郎景任の次男 行景は、工藤次郎と称す。

       行景、景隆を生む、工藤庄司と号す。景隆、景光を生む。(本朝武将

       通鑑に甲斐工藤の祖)」とあり。景光は、東鑑 治承四年八月二十五日

       條に「工藤庄司景光、同 子息 行光」とあり。

5,信濃の工藤氏 − − 当国伊那郡の名族にして、その居城は、西春近村の小出にあり。

       建久中、工藤祐経の次子 祐時、当郡の片桐家へ御預け、貞永元年六月二十六日卒す。

       子孫 曼延すと云う。後、高遠城の家士 工藤祐右衛門は、美篤村大嶋に於いて

       十八貫文を領し、工藤左近亮は、同村の青嶋に於いて十五貫文を領す。天正十年、

       主家と共に家名を失う(伊那武鑑)とぞ。

       祐経の家紋は、紋譜帳に「庵に一つ木瓜」とあり。

6,伊勢の工藤氏 − − 東鑑巻六、文治三年四月條に

       「不勤仕庄云々、富田荘(院御領、工藤左衛門尉助経知行)」とあり。

       又、下って梅松論に「伊勢国の住人 長野工藤三郎右衛門尉」を載す。長野城は、

       文永十一年、工藤近江守祐藤、始めて築き、十六世工藤具藤に至り、織田信長の為に

       陥落すと云う。祐藤は、祐継の孫 薩摩守祐長の三男 駿河守祐政の子なり。その子

       「祐房−藤房(播磨守)−豊藤−経藤−義藤−光忠−宗忠−政藤−藤継−藤直−通藤

       −稙藤−藤定−具藤」にして、四家記に「工藤の一家とは、工藤左衛門尉藤原祐経の

       後胤なり。先祖 工藤治郎左衛門尉親光、足利尊氏卿へ仕え、子孫繁昌して、伊勢国

       安濃郡長野に居住し、名字を長野と号せり。工藤の両家督と云うは、右長野工藤の

       大将なり。菴芸郡の雲林院と一味し、各々侍地下人共に軍兵千の大将なり。この両家は

       足利将軍家の侍なり。その外 一族は、安濃郡草生工藤家、同郡細野工藤家等なり。

       何れも長野の与力として 各々五百の大将なり。工藤与力五百人なり。

       幕紋は、三引両なり」とあり。

7,武蔵の工藤氏− −日向記に「時理の嫡子 時信、次男 維雄、武蔵の工藤はこれを祖とす」とあり。

8,安房の工藤氏 天津城(一名 葛埼城) 城主にして、弘長 文永の頃、工藤吉隆

       当城に居る。日蓮年譜によるに、文永の頃、日蓮 法華宗を始め 諸宗を

       誹謗す。村主 東條景信これを怒り、兵を率いて日蓮を小松原に囲む。

       天津の村主 工藤吉隆、兵を出してこれを救い、吉隆及び日蓮の徒 鏡忍

       など ここに死すとなり。

9,陸中の工藤氏 − − 工藤小次郎行光の後にして、奥州征伐の後、岩手郡を賜う。建武元年、

       その後裔 工藤光家、岩手郡不来方城に拠りて乱を起こし、南部又次郎信長に討たれる。

       下って、天正二十年、南部大膳大夫領内四十八城注文に「葛巻、山城、破却、

       工藤掃部助持分」、「厨川、平城、破却、工藤兵部少輔持分」とあり。

10,陸奥の工藤氏 − − 上記と同族にして、南部深秘抄に「名久井氏は、本苗 工藤なり。昔、

       伊豆国の住人、工藤左衛門尉祐経の長男 犬房、奥州八戸に下向し、二人の子あり。

       嫡子は、上名久井の祖にて東氏なり。下名久井は、今ある所の工藤にて、八戸氏、

       葛巻氏は同じ。又、南部三代 時実公の二男 政行、名久井工藤の家を継ぎて、三戸城の

       東にその屋敷ありければ、世人 東殿と称したり」とあり。

       又、地名辞書に「深秘抄に『八戸は、光行公の六男 波木井六郎実長の庶流、

       工藤掃部助の婿となり、八戸を知行し、南部と称し、後、八戸と称す』と見ゆ。

       工藤氏の婿となれるは、南部家、師行、政長、いづれならん。南部系譜には『師行の

       弟 政長、兄の家領を継ぎ、八戸領主 工藤将監秀信の養子となり、その娘を娶りて

       八戸弥六郎と号す』と述ぶ。将監秀信は、古文書に見えず。建武元年八月、国司(北畠

       顕家)津軽下向宿次の注文を師行と工藤右衛門入道の二人に命ぜられし証ありて、

       工藤が八戸の強族たりしことは論なし」とあり。

       又、盛風記に「破木居政長、甲州より奥州に下り、三戸南部殿の仰せにより、

       工藤大助の家を継ぎ、子孫は八戸南部氏となる」とあり。

       又、宗教風俗志に「三戸郡湊村に大祐明神あり。工藤祐経の子 犬房丸大祐を祀る。

       昔、大祐 この地に来るや、その従者 又次郎、及び長才と云う兄弟あり。云々」とあり。

       又、新撰国志に「湊の大祐明神云々、別当福寿院の説に、工藤犬房丸祐長、故ありて

       当地に下向し、奥瀬氏を娶り、館崎に居る。男子二人、長男は南部東次郎政行の養子と

       なり、次は工藤大祐と称し、弁才天を勧請し、子孫その別当となる云々」とあり。

       又、三部小史に「糠部光政、文安中、家を継ぐ。時に八戸工藤犬房丸の余裔ありて、

       田名部を兼領し、河内守政経と号す。横田五郎行長の子孫、又、蛎崎村に食み、

       蛎崎蔵人と称す。康正二年、工藤 蛎崎の両氏、相 攻撃せしが、蛎崎氏敗れて、

       工藤氏遂にその地を併す」とあり。

11,羽後の工藤氏 − − 由利郡の工藤氏なり。工藤伝作は、塩越村の農夫、文化元年六月の

       大地震に蚶潟 変じて平地となり、年々 葭茅の茂生するを見て、開墾の志を起し、

       本荘の商人 鎌田藤右衛門と諮り、七年三ヶ月の歳月を以って竣工し、次いで

       赤石谷地を開墾し、遂に良田 美壌を得ること百町余りなりと。

12,北海道の工藤氏 松前旧事記に「宝徳(享徳?)三年八月二十八日、新羅氏

       信広云々、工藤九郎左衛門尉祐長を相従え、田名部より当国へ渡る」と。

       松前藩の時、工藤平右衛門、新冠郡の宰相たり。

       又、千歳郡にも工藤氏あり。

13,他


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