小   松

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

分派氏族

 

1,小松宮− 洛西葛野郡御室の地は、もと小松と云う。仁和寺の御開創、光孝天皇

       を小松帝と申し奉るも この地名を負いし給いしものかと考えらる。

       明治の始め、仁和寺門跡、純仁法親王復飾し給いて、伏見宮に帰し、

       東伏見と称し、又 小松宮と改め給うも、旧住所に縁み給いしなり。

2,小松家 上記 宮名を継ぎ給いし也。皇室家譜に「北白川宮 能久親王 第四

       王子 小松輝久。侯爵、母は申橋幸子。明治二十一年八月十二日誕生、

       同四十一年十一月三日 勲一等に叙し、同四十三年七月二十日、家名を

       小松と賜い華族に列せらる」と。

3,光孝源氏 小松帝の御裔なるにより、その御名を負う。尊卑分脈に

       「光孝天皇(小松帝)−国紀(大蔵卿、元慶八年六月、源姓を賜う)

       −公忠(滋野と号す)−信孝(鎮守府将軍、小松将軍と号す)−兼澄

       −頼兼−文綱−有兼−光兼−懐家−有家」とあり。

4,桓武天皇清盛流 洛東 六波羅小松殿より起こる。

       尊卑分脈に「清盛−重盛(号 小松内大臣)−維盛−妙覚」と。

5,平姓− −大和の名族にして宇智郡に小松城あり、野原村にありて平氏これに拠る。

       又、吉野郡三浦村の名族に小松氏あり、上記 平維盛の後裔と云う。

       国民郷土記に「三浦小松三郎兵衛、小松三位重盛の子 左中将維盛、

       西国の乱、この山中に隠る。今に小松三位殿と云う」と。

6,藤原姓熊野別当族 熊野別当系図に「快真−湛快(別当法印)−湛増−湛憲

       −快憲(法印、小松、承久の乱、京方となり討たる)」と。

7,桓武平氏 小松氏系図に

       「小松内大臣 平重盛の長子 維盛(紀伊国有田郡保田山中に隠れ、清水清左衛門の家に潜居し、

       その娘を娶り男子を生み元久元年六月卒去)−兼盛−度盛−理盛−許盛−政盛−仲盛−長盛

       −美盛−綱盛−邦盛−弘盛−国盛(小松十郎、応仁の乱に五百余騎にて上京)−預盛−満盛

       −猶盛−保盛−盈盛−旧盛(元和八年 諸役御免被為成下)−盛敏−行盛−安盛−祐盛

       −時盛(明和四年父跡相続被仰付)」と。以下不詳、子孫 有田郡八幡村の士なりと。

8,近江の小松氏 滋賀郡の小松村より起こる。同地小松城は小松内膳、

       福島内匠の居住の地なりと云う。

9,清和源氏武田氏流 − − 甲斐国西山梨郡小松村より起る。尊卑分脈に

       「信義−兵衛尉有義−吉田太郎有信−時信(木工助、小松六郎)−時朝(小松太郎)」と。

       又、武田系図に信義の子「有義、小松祖」と。

       又、小松村石宮 文明十八年の棟札に「大旦那小松孫七有清、地頭 小松修理亮有久」と

       あり。

       又、誠忠旧家録に「小松伊勢守有広後胤、中野村 小松用七広員」とあり。

10,甲斐の小松氏 − − 甲斐国都留郡駒飼の名族なり。この地 一時小松郷と呼ぶ。

       黒野田奥野明神の天文三年の棟札に「小松越後守吉式」とあり。

11,信濃の小松氏 − − 第7項 小松内大臣の裔と云う。諏訪志料に

       「小松氏、平姓を称す。三位平重盛の長男 伊予守維盛の男 右京太夫盛政は、

       文応元年、粟津六郎、右京五郎等を供して信濃に下り、横瀬の里に潜居し、世塵を

       避く。当地の郷士 北沢金熊これを隠庇す。この盛政の子孫(維盛より六代ばかりと)に、

       横瀬孫三郎と云う者、原信濃守義建の婿となる。その子 大和守盛圓、その男

       伊勢守正盛、文明元年、逝去。小岩岳兵部太夫、青柳清長、上野殿、西牧殿等、

       皆縁者なり。右 小松殿より宇の丸太刀 拝領、後、宮本明神の宝殿に収むと云々。

       子孫頗る繁栄して、岳の下熊、野井、江間、仁科等の数家に分かる。総て木曽、

       小笠原両家に属し、声望甚だ高き趣、諸書に見ゆ。これを信濃小松の来由とす。

       天正年間 高島十人衆の内に小松蔵人なる者あり。武田家の幕下なりしが、主家

       滅亡の後浪人し、砥澤口に蟄居、専ら開農の事を励む。即ち、当家の始祖となす」と。

       又、源姓にあり。信濃伊那郡の名族にして、康暦中、小松四郎源盛義あり。

12,安房の小松氏 当国朝夷郡大貫村に小松の地名あり。この地名を名乗りしもあらん。

       当郡に小松寺あり、国志に

       「小松寺は大貫村字小松にあり。寺伝に小松民部正寿が安房守たりし時、

       七堂伽藍を建つ」と。当寺 応安七年六月一日の鐘銘に

       「当寺別当越後僧都経秀。勧進沙門大進権律師貞憲。大檀那高階家吉、

       正氏、為千代、若丸。大工 山城権守宗光」とあり。

13,下総の小松氏 − − 当国香取郡神崎町にこの地名有り、この地より起りしもあらん。

       千葉系図に「小松一郎為胤、神埼左衛門尉師時」とあり。

14,岩磐の小松氏 会津郡(大沼郡)に小松村ありて小松殿の墓存す。

       新編会津風土記に「下小松村、館跡、延文の頃、小松弾正包家 築けり

       と云う。その後、平田総右衛門と云う者住し、天正の頃、松本源兵衛

       居りしと云う」とあり。

       又、若松諏訪社の社家に小松氏、

       又、保土原江南齋の従兵に小松源六あり、白石刑部大夫を討取ると。

15,奥州安倍姓 − − 羽前国置賜郡小松村より起る。ェ永系図に

       「安倍頼良の四男 官照、出羽国置賜郡小松の館に住し、子孫 小松を称す」と云う。

       系図に「安倍頼良−官照(安倍貞任の弟、小松館と称す)弟、五郎正任−二郎重任

       −小太郎重秀(小松を称す)」とあり。家紋、竹の丸に一文字。

16,羽後の小松氏 飽海郡に小松村あり、この地より起りしもあらん。

       仁賀保氏 配下の将に小松氏あり。

17,陸奥の小松氏 − − 建武元年十二月、津軽降人交名に「小松中務入道」とあり。

18,丹波の小松氏 氷上郡奥村南山裾に「城山と云う屋敷跡あり。岩倉城とも

       見ゆ。小松氏の居城なり。この小松氏は、古え 四国三列の城主にて、

       尾松家と云い、小松とも書す。又、高松家なりと云えり。岩蔵に来たり

       住す」と。

       又、丹波志に「古えは、宮家 高松家也。小松左近将監を祖とす。子孫 南村」と。

19,丹後の小松氏 與謝郡の名族にして、平重盛の五男 忠房の後と云う。

20,因幡の小松氏 八東郡の名族にして、小畑郷柿ヶ原村婆ヶ城は、この氏の

       居城なり。小松勝吉(正勝)は、山中鹿之助の為に攻められ、断絶せり。

       本知は、一万三千石なれども、小畑両谷は、勿論、知頭郡の内、北俣谷

       五ヶ村、本谷は、駒皈りより、小野見口の辺まで、その領分なり。

       清徳寺村の農民 小松は、その正統と云う。

       済徳寺に小松氏代々の五輪三十四五基あり。

21,安芸の小松氏 豊田郡の名族にして、船木村永福寺城は一名 亀岡原と云う。

       小松備前の居城と伝う。

22,土佐の小松氏  − − 当国土佐郡、安芸郡にこの地名有り。この地名を名乗りしもあらん。 

       式社考に「小松神社、大忍里庄被山別役村にあり、この郷に小松氏多し、蓋し

       その祖なり。度会延経神主曰く、姓氏録に云う、太秦公宿禰は、秦の始皇帝の三世・

       孝武王の後なり。男 功満王、仲哀八年来朝。男 融通王、応神十四年来朝」と。

       幕末、香美郡片地村の人に小松楽成あり、勤皇の士なり、又、小松勇道あり。

23,日向の小松氏 南那珂郡に小松山あり。日向記に「新田小松殿 云々」と。

       又、小松遠江守、小松兵部大輔などあり。

24,建部姓禰寝氏(称 平姓) − − 大隅の名族にして、小松内府(平重盛)の後裔と称す。

       地理纂考、小根占郷川南村 富田城條に「建仁三年、鎌倉将軍源頼家卿、平清重を

       以って大隅国禰寝院南俣の地頭職とす。その後子孫承襲す。小松氏家譜に云う

       『清重の祖父 高清は、平維盛の子なり。清重 大隅に来りし時、天下の大政 源氏に

       帰す。故に清重 忌諱を避けて、その父祖の姓を称せず。舅の氏 建部清房の姓を

       称して、建部氏を称す。子孫これを承く。第八代清有 足利家に属し、戦功にて

       大禰寝院の地頭職を兼ぬ。清有の子は久清なり。永徳元年、今川了俊、久清に

       禰寝北俣の四村を与う。久清七世の孫 重長、初め伊東修理太夫義祐、肝付河内兼続、

       伊地知周防重興に組して島津家に叛す。天正元年、島津義久、重長を諭す。重長

       ここに服す。義久 重長と共に肝付氏を討つ。重長 数々肝付と戦う。二年正月、

       伊東氏、肝付氏、兵を合わせて当村の瀬脇城を抜き、当城に迫る。時に喜入攝津季久、

       平田新左衛門等、援兵として当城に在り、城兵と共にこれを防ぎて敵を破る。この時、

       季久の弟 忠通等 戦死す。重長に至り 建部姓を改め、平姓に復す。重長の子

       重張の代、文禄四年、当村を去りて薩摩国吉利に移る。 禰寝氏 当村を領すること

       四百余年、清重以来禰寝を姓とす。第二十三世式部清香に至りて、改めて

       小松を号す』」とあり。

25,薩摩の小松氏 − − 上記の後にして、地理纂考、三国名勝図会等に

       「薩摩国鹿児島郡吉利郷は、小松某の旧領なり。その祖先、平清盛より出づ。累世

       大隅根占を領す。十七代 清張に至り、文禄四年、太閤秀吉公の命により 当国に移り、

       以来世々ここを領せり。根占は、禰寝の字を用い、よりて前には禰寝を家号とせり。

       二十四代 清香に至り、小松に改む」と。

       同所の平野神社は、元禄十一年、村主 小松丹波平清雄 建立すと云う。

       又、鬼丸神社は、祭神小松氏の祖 禰寝右近太夫重長なりと。

       又、建部神社は小松氏の始祖、平清重 建立なりとぞ。

       又、幕末、鹿児島藩士 小松清廉(帯刀)、維新の時功ありて伯爵を賜う。

26,他


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