国   分(コクブ)

解説

中古 諸国に僧尼の両国分寺あり。国分の地名は、この寺名

より来りしにて、各 国々に存す。その地は国府に近く、且つ

音の通ずるより、時に混ずる事あり。

国分氏は この地名を負ひしなれば、各 国々 別流なるを恒と

すれど、時に異例あり。又 後世 同名なるより、混同するも

少なからず。

分派氏族

 

1,桓武平氏千葉氏流 葛飾郡国分村より起こる。尊卑分脈に

       「千葉常胤−胤道(国分五郎)」と。

       東鑑、治承四年九月十七日條に「千葉常胤五郎胤道(国分)」と。

       又、千葉大系図に「胤通、香取郡本矢作城に居る。」と。

       又、千葉系図にも「国分五郎胤通」とあり。

       下って、香取郡志に「浄土寺は、大戸川にあり創建詳ならず。天正九年、

       矢作城主、国分胤政これを再建す」と。

2,桓武平氏鹿島氏流 天正十九年二月、鹿島清秀、佐竹義宣の誘殺する所と

       なり、後 上記 国分胤政の二子 胤光、養子となって鹿島氏を継ぐ。

3,清和源氏佐竹氏流 佐竹昌義の男 義弘、国分六郎と称す。

4,上野の国分氏 群馬郡の国分村より起こる。名跡考に「国分大蔵坊は、回国

       雑記にも見え(文明十八年)、古文書を蔵すと。

       武家系図に、里見伊賀孫太郎義綱の次男を大蔵坊義経とす。この山伏の

       先祖にあらぬか」と云う。

5,奥州の国分氏 @秀郷流藤原姓 A桓武平氏千葉氏流 B信濃の藤原流

    @秀郷流藤原姓 余目記録に「国分は、小山より長沼分かれ、長沼の

     親類にて、出家にて下荒井が先祖なりき。云々」と。

     又、「藤原は、云々、小山、白河、登米、八幡、国分、是れ一族」と。

     相馬文書、貞治六年、左京大夫の判書に「宮城郡国分寺郷半分(国分淡路守、

     並びに一族など跡)地頭職云々」

     又、愛子村諏訪神社棟札に「康正三年、国分能登守藤原宗政、所建」とあり。

    A桓武平氏千葉氏流

     観蹟聞老志に「仙台城、文治中、結城七郎朝光、ここに居る。以後荒廃久し。

     永禄中、国分能登守盛氏来たり居る。天正中、嗣子盛重、継いで居る。これ

     より先、黄門君は、北目館に在り、慶長五年十二月、東照神君の命により、

     ここに移る」と。

    B信濃の藤原流

     信濃国小県郡国分庄より起こりし氏にして室町前期に陸前国に移りしならん。

     第8項参照

6,伊達氏流 上記Aの後なり。野志に「伊達晴宗、岩城常隆の娘を娶りて、

       数子を産む。長男を宣隆と云う。岩城氏を継ぐ。次男を輝宗と云い、

       次に某、宮内少輔と称す。次に盛重と云う。国分盛氏の後を継ぎ、

       三河守と称す。国分城主たり」と。

7,藤原姓 信濃の名族にして、小県郡国分庄より起こる。国分庄司中信の後

       なり。正安の鎌倉下知状に

       「早く藤原秀信をして、信濃国分寺、南條内田在家を領地すべき事。

       右親父左衛門尉長信法師の、永仁二年六月十一日の譲状に任せ、先例を

       守り、領掌せしむべきの状、仰せにより下知、件の如し。正安三年、四

       月十日。陸奥守平朝臣(判。大仏貞直)。相模守平朝臣(判。執権貞時)」

       と。

8,刈田の藤原姓 − − これも陸前国の名族にして、上記 信濃より移る。地名辞書に

       「刈田郡平沢の国分氏は、宮城郡の国分氏とは全く異流の家とす」とあり。

       伊達世臣譜略に「国分、姓は藤原、その先は信州国分より出づるなり。累世

       当家に仕え、一族に列す。嘉慶、応永、文安の間、第九世政宗君、第十世氏宗君、

       第十一世持宗君が、その先祖 彦四郎入道、川内入道、筑後某(三人共に名は

       伝わらず)に賜う所の判書は、今にその家に伝う。民部氏信(十五世晴宗君、

       十六世輝宗君、両世の間の人、以前は家系伝わらず)。氏信の孫、源三重信、

       十八世忠宗君の世、罪ありて采地を没収され、その家 断絶す。以後 親族

       飯田出雲成親、采地を分与してその家を立てん事を請う。ここに於いてその罪を許し

       列を降ろして太刀上となす。今その子孫、二十石の地を領す」とあり。

       又、仙台国分文書に「陸奥国刈田郡平沢郷北方の事。右早く越後入道定久と談合し、

       先例に任せ沙汰致さるべきの状 件の如し。応永九年。沙弥圓孝。国分河内入道殿」と。

9,岩代の国分氏 − − 第1項 千葉氏の族と云い、清和源氏石橋氏の族と云う。積達館基考に

       「国分は相馬と同流にて、下総千葉の分流、文治五年、泰衡征伐の時、勲功ありて

       栗原郡を賜い、数代領せしが、小五郎忠胤の時、領地を失い、二本松に来りて

       畠山満泰に仕え、その嫡孫 近江守政泰、高倉に移りし時、輔佐の臣に附けられて、

       共に高倉に移り阿久津館に住す」とあり。

       国分利大夫は、高倉の検断職にて系図を蔵すとぞ。

10,深谷の国分氏 野史に「天正四年、相馬義胤 深谷国分氏を娶る」とあり(奥相茶話)

11,海老名氏流 − − また、国府氏とも云う。佐渡国羽茂郡国分村より起る。本間系図に

       「海老名源八季定の三男に国分国分三郎有季あり。その子 国分八郎季重、その子

       太郎左衛門尉朝隆、その弟 式部大輔泰季、及び朝隆の子 次郎左衛門季頼」とあり。

12,能登の国分氏 三州志 羽咋郡町屋堡條に「国分佐兵衛居たり。按ずるに

       町屋村は、西谷村より近し。然れば、西谷の国分の子弟などにて、西谷

       の支流ならん。村民は、岡部某居りたりと云う」と。

13,藤原姓高木氏流 − − 肥前の名族にして、佐嘉郡国分より起る。高木氏の族にて、鎮西要略に

       「太宰大弐の仲子を三郎大夫季平と云う。子孫 肥前国に繁茂す。国分氏、長瀬氏、

       富崎氏の先祖なり」とあり。

       又、鎮西志、正嘉元年條に「高木氏は 上佐嘉の所領を削られ、その地を以って

       国分忠俊を封ず、今、朽井鑰尼(鍵山)氏と称するは、忠俊の令孫なり」とあり。

       又、鎮西要略に「国分氏、藤原忠俊」とあり。

       又、北肥戦誌に「建治二年云々、国分弥次郎季高」、

       河上淀姫社、正安二年十月二十六日文書に「国分又次郎長季」、

       正和四年五月二日文書に「国分文次郎入道淨光」、

       元徳元年十一月二十九日文書に「国分彦次郎季朝」などとあり。

       又、鎮西要略、延文四年條に「武家方 国分彦次郎」と、

       又、太平記 菊池合戦條に「国分二郎、宮方」とあり。

14,神代氏流 筑後国三井郡国分村より起こる。神代左馬介の後なり。国分新右衛門 あり

15,執印氏流 薩摩の国分氏にして、高城郡水引郷国分村より起こる。

       地理纂考 菅原神社條に「新田宮留守職国分左衛門尉友成、この地を

       領して当社を鎮守となす。国分は、新田宮神官 執印氏の支流なり」と。

16,他


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る