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解説 |
二三の異流あれど、大体は天武天皇の後胤、或は 同天皇 後裔と称す。史上 屈指の大姓にして 北は奥羽より、南は 九州に及び 文脈極めて多く、有力なる者甚だ多し。 時には略して、清氏と言う。清将軍、清少納言の如き、 これ也。又 武家に清党あり、尚 浄原氏と通ずる事あり。 青森県弘前市、群馬県太田市、東京都東大和市、 富山県小矢部市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清原真人 − − 天武天皇皇子 舎人親王より出づ。東大資料編纂所発行系図に
舎人親王┬貞代王−有雄−通雄(清原氏)−海雄−房則┬業恒 |
*武則、康平六年二月 安倍貞任 追討の功により鎮守府将軍に任ぜられる
後三年の役後、家衡と母を同じくする清衡(藤原)の家、多いに栄える。
2,下野の清原氏− −芳賀系図に「舎人親王九代の後裔 瀧口蔵人清原高澄七代の嫡孫、
高親(芳賀次郎大夫、建久九年八月三日卒)」と。
又、宇都宮興廃記に「高澄の男 高重は、花山法皇の勅勘を蒙り、下野
に配流せられ、芳賀郡大内庄に住す、七世の孫 次郎大夫高親なり」と。
3,常陸の清原氏− − 当国総社の社家なり。「宝徳二年七月に、清原詮治、鹿島大宮司
中臣則広より権禰宜職に補せられし」と。
4,明経道清原家 − − 平安中期以来中央なる清原氏は、儒家として最も著わる。
職原抄に「大学寮・四道儒士 出身云々、明経(清原、中原)」とある
ものこの家にして、五條、船橋、東高倉の諸家これ也。広澄に始まり、
頼業に至りて大成す。系図は
広澄−頼隆(文章博士、天喜元年七月十八 卒)┬定滋−定康−祐隆┬頼業――┬仲隆 |
5,舟橋流 − −頼業の後にして、尊卑分脈に「頼業−良業−頼尚−良季−良枝−宗尚−良兼
−宗季−良賢−頼季−宗業−良宣−宗賢−宣賢(天文十九年七月十二日卒)−業賢
−頼賢」と。代々、明経の博士として有名なり。
6,五條流 − −宗尚の弟 頼元の家なり。勤王家として名高し。尊卑分脈に「頼元(備中守、博士、
貞治六年五月二十日、筑前国三奈木庄に於いて卒、七十八)−良氏、弟 頼清」と。
7,筑後の五條家 − − 上記 清原頼元(五條少納言)の後にして、初め
筑前国三奈木に居り、子孫
筑後国矢部に移る。正平五年の口宣案に「正五位下 清原良氏」、同十八年の宣旨に
「正五位下 清原良遠」、又、元中十一年文書に「清原良量」、下って永禄十九年、
清原武蔵守戦死、「天正六年十一月十二日 清原左馬大夫戦死」などあり。
8,関東流 − −広澄の弟 近澄の後にして、尊卑分脈に
「近澄(周防守)−頼佐(能登守)−顕俊−師俊−光俊−俊平」とあり。
又、尊卑分脈に「定滋の弟 定隆−淨明−貞資−定友−信定=清定−満定(弘長三年卒)
−重定(問注所寄人)−伊定(政所寄人)−職定(引付奉行)−職顕−通定(引付奉行)
−秀定(引付奉行)−貞秀(和泉守、政所寄人)−貞枝」とあり。
9,太宰府官流 − − 系図に「深養父−春光(下総長門等の守)−元輔(肥後周防等守)
−致信(太宰少監、号 清監)」とある後にして、太宰府符に
「正六位上行 大典清原真人牒」と、
又、永承七年六月八日の太宰府在庁官人 名簿に「大典清原」とあり。
10,豊後流 − − 当国の名族にして、浅羽本豊後清原系図に
「海雄(筑前守)−房則(豊前守)−深養父−春光(下総守)−元輔(肥後守)−戒秀−定額
−正高(始めて豊後国玖珠郡に住む)−清大夫正通」とあり。
11,肥前の清原氏 − − 当国の在庁官にして、ェ治五年八月文書に「権大宮司 清原貞国」とあり。
12,伊勢の清原氏 − − 貞観三年七月十四日記に「伊勢国司介従五位下 清原真人長統」あり。
又、神宮雑事記に「鍬方の御麻生園預に清原秀延」とあり。
13,大和の清原氏− − 談山神社文書に「葛下郡平田御庄 惣追補使 清原正秀注量す
云々、右件の四至内は、如何なる狼藉ありと謂えども、正秀全くその
沙汰すべからず。唯両座支首助頼など、沙汰を加えざるの状、後代の
証拠として、注置するところ件の如し。建久四年四月。惣追補使
清原
在判」とあり。
14,他
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