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解説 |
摂津 武蔵などにこの地名あり。 この氏はこの地名を負いしもあれど、多くは 古代 吉志 (大彦命・オオビコのミコト)の裔か。 東京都武蔵村山市、埼玉県川越市、静岡県島田市に 岸の地名あり。 |
分派氏族 |
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1,武蔵の岸氏 − − 豊島郡に岸稲荷あり、新撰風土記、多摩郡奈良橋村條に「先祖
岸入道右近尉吉家、天正十五年六月死、とのみ伝えり。旧家なる由を
云えど拠る所はなし」と。
又、都筑郡條に「岸氏(茅ヶ崎村)、世々土着せしものなり。小田原
役帳に、座間某、郡中茅ヶ崎を領せしを載す。座間豊後守、座間弥三郎
など、皆某の父祖にて、清左衛門、たまたま故領主の来書を蔵するか。
或は清左衛門も二人の子孫ならん。後に氏を改めしか。」とあり。
2,備後の岸氏 − − 芸藩通志 恵蘇郡に「新市村岸氏先祖、岸弥次郎は、兄
井上八
郎右衛門と共に軍功ありて、蔀山城主より感状を給わる、今の利三郎
まで十世」と。
3,越後の岸氏 − − 当国頚城郡の名族にして、上杉氏に属す。大所城(大所村)は、
上杉家臣 岸豊後守の居城なりしと云う。
4,出羽の岸氏 − − 村山郡五百川郷の豪族に岸氏あり、幾志とも書す。風土略記に
「八沼館は、西五百川にあり。岸美作守館なり。美作は、天正年中、
最上義光 招き賜えどもきかず。よりて討手を向けられ、小関喜左衛門、
羽黒山石礫の弁ェ寺など、美作に加勢す。されど多勢に無勢なれば、
弁ェを始め三百余人討死にし、美作も降人となる。左澤、五百川などは
当時美作の領なりしとぞ」と。
5,丹後の岸氏
− − 丹後国庄郷保惣田数目録帳に
「加佐郡大内庄、四十九町九反二百九十二歩内、四十五歩、和江村 岸九郎左衛門」とあり。
6,丹波の岸氏 − − 氷上郡にあり、丹波志に
「岸氏、子孫 福田村、先祖 久下の金屋村より来り、北口谷川の西に住す」とあり。
7,清和源氏岸本氏流 − − もと岸本と称す。家紋、丸に木瓜、井筒の内に銀杏巴。
8,清和源氏山名氏流 − − 美作の名族にして、伯耆国尾高城主 山名伯耆守氏重の二男
岸備前守氏秀(伯耆守 守重の弟)の後と称す。永禄元年十月十五日、浦上宗景の為に
破られ自殺す。その子 與左衛門重重(子孫
久米郡籾村)、左兵衛次郎(その子 氏利、
子孫、英田郡楢原村)、弥三郎秀光(子孫
苫田郡香口美庄)と云う。
又、津山藩分限帳に「五十石 岸喜一郎」とあり。
9, 桓武平氏
− −
良将の流と云う。北條氏の臣 正吉より系あり。
家紋 片杭繋ぎ馬、下り藤に一文字、左藤巴。
10,清和源氏 − − 阿波国の名族にして、同国 名東郡国府町府中 岸豊三郎所蔵の岸系図に
「孝基、岸左馬頭、丹波篠山城主 、清和源氏桃薗親王三代、伊予守満仲、
弟 従五位上 武蔵守満季二十代。永正八年 船岡山に於いて戦死す。大乘院覚妙渲
大居士」とあり、又、「貫房、少将、後、善兵衛、十四歳にて與頭庄頭役を蒙り、
二十年余り勤む。嫡男 信真へ譲り、幼方の下代役を勤む。老年に及び下代役を
末子に譲り、二度隠居し、一雲と号す。元禄九年十月二十二日卒、領巌一雲信士、
年 八十八」とあり。
11,他
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