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解説 |
紀伊 近江
下野 岩代
陸奥などにこの地名ありて、有力なる 木村氏を起こす。 秋田県仙北郡仙北町、千葉県富津市、長野県東筑摩郡生坂村 兵庫県出石郡但東町、島根県出雲市、岡山県吉備郡真備町、 同 総社市、香川県丸亀市、高知県吾川郡吾川村にこの 地名あり。 |
分派氏族 |
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1,紀姓(佐々木氏流) − − 近江国蒲生郡木村より起こる。
輿地志略に「木村左衛門尉行定は、蒲生の木村に在住す。佐々木経方の
二男なり、その男 兵部少輔定道 相続して、ここに居り、佐々木の神官
職を譲与せらる。行定の母は、紀 下野守盛宗の娘なるを以って祖母の
姓を称し、木村権守紀の道政と云う。一時平家に諂諛し、寿永以後に、
又源家に属し、西国討手の人数に在り。通盛を討ち取りたりし木村源五
重章、同 源三成綱、同 俊綱、皆この木村の一族なり」と。
下りて戦国の頃、六角家臣に木村筑後守重孝あり、又、賤ヶ嶽の戦に
木村隼人定詮あり、安西軍策に木村隼人佐、天正十六年、堀氏に従って
北国に行く。その子 を木村常陸介重茲と云う。小牧戦の時 二重掘の砦
を守りて殿し、聚楽行幸の際、関白殿前駈に木村常陸介と見え、後に関
白秀次の老臣となる。長門守重成は、その子にして、秀頼に仕え大阪の
陣に忠死す。長門守屋敷は、蒲生郡西村に存すと。
2,奥州の 木村氏 − −木村伊勢守あり、始め明智光秀に仕え、後 秀吉に従いて、
奥州に下る。藩翰譜に「木村伊勢守、同 弥一右衛門尉父子に、葛西
大崎の地(陸前国)を賜いて(二十万石)、蒲生氏郷に副られたり。
九月の初め、関白御上洛の後、葛西大崎に賊徒起こりて、木村父子を攻
む。氏郷これを聞きて伊達政宗に牒状し、軍勢を率い馳せ向って、ここ
かしこの賊徒を悉く打ち平らぐ」と。伊勢守の名は貞時、弥一は秀俊
なりと云い、又、伊勢守は秀俊にして、その子を重昌なりと云うと。
3,佐々木流幕臣木村氏 − − ェ政系譜、佐々木流木村氏の末裔九家を載す。
家紋 四目結、釘抜。行定、母姓を使って木村権守紀道政と云うなり
と伝えたり。
4,猪飼氏流 − − 近江国滋賀郡に木村氏あり、木村寿徳、姓は、猪飼氏、本郡堅田
の人、射術を吉田出雲守重綱に学び、精妙に達す。その工夫を習う者
多し。猪飼、世にこれを寿徳派と云う。
5,美濃の木村氏 − − 新撰志 大野郡上磯村條に「上磯古城、木村藤助五千石にて
在城せしと云う」と載せ、又
安八郡八条村條に「墳墓、木村宗左衛門父子の墓は、瑞雲寺にあり」と。
又、和泉村條に「古城址、秀吉公の頃、木村常陸介の居城なり。西保
北方の木村宗左衛門重広は、この常陸介の同族なるべし」と。
又、事実文編に「下笠城主 木村蔵人は、三浦氏の後なり」と。
6,藤原姓木下氏流 − − もと「木下氏、勝重に至り秀吉に仕えるに及び、木村に
改む」と云う。ェ政系譜に「家紋 花輪違」と。
7,平姓 −
− 種次に至り原田を称す。ェ政系譜に「家紋
丸に三引」と。
8,源姓服部流 − − 始め服部、後に栗津、更に外家の号をまねて木村と云う。
家紋 丸に釘抜、松皮菱。
9,清和源氏 − − ェ政系譜に「家紋 丸に花橘、タンポポ」
10,三河の木村氏− −二葉松に「賀茂郡大沼村古城。木村東見入道、俗名 安信。
息子 新九郎、或いは半七郎。天正二年、勝頼これを攻め落城す」とあり。
11,秀郷流藤原姓足利氏流 − − 下野国都賀郡木村より起こる。
尊卑分脈に「足利大夫成行−孫太郎家綱−七郎有綱−信綱(木村五郎)」と。
又、ェ政系譜に「木村信綱−雅綱−時綱−信経−行親−義綱−度綱−信政
−秀経−定綱−信茂−茂綱−秀綱−秀延−房綱−持久−信久(家康公に仕う)。
家紋 三頭左巴、五三桐」と。
12,田村の木村氏 − − 岩代国田村郡木村より起こる。田村大膳大夫清顕の家中に
木村越中守ありて木村館(逢隈村木村)に拠る。積達館基考に
「天正七年の頃、木村某と云う者、二本松修理大夫義国に組して田村の
透間を伺う」とあり。
13,会津の木村氏 − − 会津郡弥五島館は、天正の頃、木村数馬某 居住せしとぞ。
又、大沼郡長岡館村の館跡は、木村隼人
住せしと云い、
又、耶麻郡に木村一類(慶長六年文書)あり。
14,陸前の木村氏 − − 遠刈田郡の名族にして、大沢村百々館は、木村左馬助の居城と云う。
15,陸奥紀姓 − − 三戸郡の名族にして、五戸館は、この氏の居館と伝えられ、慶長中
まで居ると云う。
奥南旧指録に「五戸の又重、戸来の二家は、木村氏にて紀姓
名取の子孫」と。
又、木村伊勢あり、剃髪して了清と云う。南部譜代
木村因幡の後ならんと云う。
盛風記に「信直公より又重の館を預かりし木村伊勢
云々」と。
又、四十八城注文に「金田一城代官
木村木工」とあり。
16,武蔵の木村氏 − − 新編風土記、児玉郡條に「木村氏(河内村)。村の名主
にて先祖を次郎五郎と云う。当村の開墾人なり。家系もあらざれば詳な
ることは知らざれど、天正十年、北条の家臣 富田吉晴奉じて出せし
制札を蔵すれば、その家臣にて且つ、旧家なることを証すべし」と。
又、大里郡下久下村の名族にこの氏ありて、先祖を木村権守と云う。
又、荏原郡木村氏は先祖を木村外記と云えり。覚願寺の墓所に
「天文十二年八月二十二日」とあり。
17,日下部姓 − − 幕臣にして甲府に住す。家紋 丸に違い矢。
18,物部姓 − − 摂津国武庫郡本庄村青木の木村氏、家伝に
「物部守屋三十九代の孫にして、先祖
天火明櫛玉饒速日命より五十三代目に
当たる。而して木村姓と名乗りしは、守屋が仏敵として滅び、その孫 仲濃男、
摂津国百済野東田邊にて四分一の封を賜い、文武天皇の大宝元年に仏敵なる
疑いを避けるため、物部姓を捨て木村姓を名乗りしものと云う」と。
19,摂津佐々木氏流− −佐々木三郎盛綱の後裔 常陸介重茲の弟 主計頭宗明の後なりと云う。
江戸時代 浪花の文人 壷井屋太吉(孔恭)は、この氏なり。
20,藤原姓飯尾氏流 − − 但馬国朝来郡中には、木村氏頗る多く、その大半は、
武田信玄家臣 飯尾右京進直利の二子 新左衛門尉など、播州加古郡木村
(印南郡)に移住して、氏とすと云う。家紋 丸の内五本骨扇。
21,美作の木村氏 − − 葛下城主 中村大炊助頼宗の重臣に木村菅太郎あり。子孫
苫田郡山城村、勝田郡勝間田村などに存す。その他、津山、久米郡南方
一色、真庭郡上山などにこの氏あり。上山の木村氏は「杉小左衛門政影
の二男
良政(木村氏養子、家弘と云う)の後なり」と。
又、東作志に「勝南郡入田村庄屋 木村與右衛門」とあり。
22,芸藩の木村氏 − − 芸藩通志に「一丁目 海老屋、先祖 菊屋長兵衛は氏を木村と云う。
元和中に紀伊より移り、二世
久左衛門勝意に至り、酒屋となり海老屋と称す。
勝意は深く藩君の眷顧を蒙る。六世久左衛門に至り、嗣なく、今
一族看守す。
家に多く書画珍器を蔵す」とあり。
23,出雲佐々木氏流 − − 塩冶の重臣にして、太平記に木村源三あり。
又、明徳記に「木村源七・塩冶駿河守が申送たる趣を委細申しければ、云々」
とあり。家紋、四目結。
24,佐々木姓岡崎流 − −
紀伊国名草郡岡崎庄の木村氏(川辺村)は、佐々木兵庫助
経方 七世の孫 木村源蔵義成の六男 岡崎太郎左衛門義高の後なり。義高、
近江国高島より流浪して当地に来たり、岡崎の郷を領し岡崎と改む。
その子を義秋と云う。七代の孫 義重、弟三郎兵衛と共に根来雑賀太田の
役に数々戦功あり、秀吉入国の時 所領を失う。後 木村に復すとぞ。
又、続風土記、吉礼荘吉礼村 古城跡條に「近江国の浪士
木村平左衛門景綱
この城に居住す。その時 村中に辻万五郎と云う者ありて、その士を愛し、
弓取坂を半分与えて村に住せしむ。云々」とあり。
又、那賀郡長原村旧家 六十人地士に木村勘助あり。家伝に
「その祖を名草郡吉礼城主木村平左衛門景綱と云う。系図は火災にあいて
伝わらず。元和年間地士に命じられ、世々吉礼村に住し、ェ政年中
当村に
移る」と云う。
又、伊都郡窪村に古城跡あり、続風土記に「村の北
二町ほどにあり、城主
詳ならざれども、里人の説に、この山を持ちたる者、村中に木村藤五郎と
いう者あり。この先祖の城なるべし」とあり。
又、馬場村に木村立元、東村地士に木村孫市あり。
25,鈴木氏流− −これも紀伊の名族にして、続風土記 菖蒲谷村 旧家地士 木村幸助條に
「その家伝に云う、旧は鈴木氏なりしに、朝廷より命ありて木村に改む。
根来 盛んなりし時、三十石の助力あり。又、五百年前まで□六郡の糀谷より
米三斗づつをこの家に収む云々。これ皆 熊野権現 天竺より御鎮座の節、
御笈を負い御供せし故と云い伝う。按ずるに 当村に熊野権現社あり、熊野
よりこの地へ勧請せしなるべし。又、家伝に、 信長公の時は菖蒲谷一村を
領せしと云う」とあり。
26,筑前の木村氏 − − 秋月配下の将に木村甲斐あり、池田壘を守る。
又、筑紫家三家老の一に木村備前守治種あり。
27,加賀藩の木村氏
− − 加賀藩給帳に「四百石(紋 丸の内に四ツ目) 木村喜右衛門、
二百石(紋 釘抜) 木村権三郎、二百石(紋 撫子) 木村左兵衛、
二百石(紋 下り藤丸) 木村多膳、百五十石(紋 丸の内に三松葉) 木村三左衛門
百八十石(紋 丸の内に木瓜) 木村弥十郎、百五十石(紋 丸の内に釘抜) 木村平兵衛」
とあり。
28、行司の木村庄之助 − − 真田伊豆守の臣 中立羽左衛門清重の後なりと云う。
相撲の立行司(たてぎようじ)の名。行司の最高位。1726年に
中立(なかだち)庄之助が改名して初代となり、代々 立行司を務めたと
伝えられる。
29、他
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