川   島

解説

河島に同じ、和名抄 山城国葛野郡に川島郷あり、加八之末と

註す。其の他 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

山形県村山市、岡山県久米郡久米南町に河島の地名あり。

川島の地名は29ヶ所あり。

分派氏族

 

1,利仁流藤原姓河合斎藤流 尊卑分脈に

       「河合斎藤助宗−成実−成行−成利−利用−利継(号 河島)」と。

2,越前の河島氏 当国今立郡に河島村あり。太平記に河島左近蔵人惟頼あり。

       巻十九に「惟頼は、三百余騎にて三峰の城より馳せ来る」と。

       上記の同族か。

3,美濃の川島氏 当国葉栗郡(羽鳥郡)に川島村あり。この地名を名乗りしも

       あらん。

       天文、弘治の頃、川島掃部介唯重なる者、丸城に拠る。斎藤道三方なり。

       この人 惟重とも記す。

4,佐々木 六角流 近江国高島郡川島村より起こる。浅羽本佐々木系図に

       「山内五郎右衛門尉信詮−義重−元綱(川島五郎)」と。ェ政系譜に

       この末流二家を載す。家紋 四目結、梅鉢。

5,近江の川島氏 初代 玄処は、近江国川島村の生まれにして、朽木監物の家臣

       なりと云う。元和七年、十一月二十四日没、その子 玄信、近江より

       伊勢に移り、津藩主 藤堂氏に仕う。元禄三年十一月十九日没。

       家紋 丸に違巴なりと。

6,川島皇子裔− −近江国神崎郡塚本村に川島皇子廟あり、よって村名とす。当村に川島氏多し。

       皆、皇子の裔と云う。家紋は、違鷹羽。

7,山城の河島氏 − − 山城国西岡河島村より起こる。ェ政系譜に

       「長成(光源院義輝に仕え 山城国西岡河嶋村を知行す)−長俊(織田信長に仕う)

       −善貞−徳助−熊之助」とあり。

8,秀郷流藤原姓河村氏流 − − 河村系図に

       「河村三郎秀高−秀経−秀景−秀信(号 河島弥五郎)」とあり。

9,伊勢の川島氏 − − 当国三重郡に川島村あり、この地より起りしもあらん。

       三国地志に「河島二郎俊盛、川島伊豆守」などの名あり。

10,紀伊の川島氏 − − 続風土記 在田郡中島村光明寺條に

       「越前三ヶ峰の城主 川島左近蔵人惟員、当地に移り、惟員五代の孫

       川島左近大夫常明、文明年中 当寺を開基す」とあり。

11,河内の川島氏 楠氏に従いし忠勇の士に川島六郎あり。

       又、永禄二年交野郡侍中連名帳に「津田村 川島壱岐介長春、杉村 川島

       武左衛門尉貞勝」あり。

       下ってェ永十七年、三宮着座覚に「津田村、川島氏三軒。杉村、川島氏

       一軒」とあり。

12,丹後の川島氏 與謝郡にあり。当郡 高妻山城(栗田城とも云う。栗田村

       上司高妻山)は、天正年中 河島備前守拠る。天正六年十月、細川氏入国

       の時、猪岡山にて奮戦し、同十年九月十一日、細川忠興の為に攻め落と

       されしと云う。

13,加賀の川島氏 − − 加賀藩給帳に「百五十石 家紋 九曜 河島平吉郎」とあり。

14,武蔵の川島氏 − − 新編風土記 多摩郡條に

       「川島氏はもと長田氏なり。甲州都留郡西原の産と云う。長田の本家にて今郡内に

       支族あり、北條陸奥守氏照に仕えたり。八王子落城の時、討洩されて山中に

       逃れしが、前田利家の下知に従いて当宿を元八王子より、ここへ引移せり。この時、

       作左衛門を推挙せしは、彼の伯父 川島右近と云う者なり。故にその苗字を譲り受け、

       川島に改めしとぞ。その後久しく、ここに住して没せし時、その子 作左衛門、僅かに

       十一歳なりしを母なるもの養育して、当所の奉行 大久保石見守のもとへ仕えしめ

       けるに、十七歳の時、石見守が上洛せしに従いしが、伏見を過る時、同家人と闘争に

       及び二人まで討って捨て、それより立ち退きて当所へ帰れり。石見守 洛より帰りて

       糾明せしが、由緒ある者なればとて、仕官を停止せしのみにて、止みければ、やがて

       この所の名主役となり、本陣宿の役をつとめり。いくほどなく石見守没して、平生の

       積悪 露顕しけるにより、一族皆刑せられし後、その家人等分散し、多く当町に住して

       横行せしかば、町人等 甚だ害を蒙れり。中にも大島一平次と云う者 多く徒党を結び、

       賊の魁首たるを以って、その余党江戸に横行するに至りしかば、作左衛門 命ぜられ、

       彼らを捕えて奉れとありし故、やがて作左衛門 謀を以って近郷高幡村にて芝居

       狂言を興行せり。一平次は、これを知らず、見物せんと来りけるを、からめて奉り

       けり。この後も次郎右衛門と云う強力の盗賊ありけるを、ある夜町中よりおい出し

       けるに、この時も作左衛門追いかけて、青梅道天王森の脇にて討ち取れり。かかる

       功も数ありて強力の聞こえありしが、年老いて後 家業を継ぐべき男子無く、女子

       一人ありし故、同郡原町田村 名主 平右衛門の三男 小兵衛と云う者を婿養子として、

       役儀を譲りしが、その妻 病死しければ、小兵衛 離縁して原町田に帰りしかば、

       又、作左衛門 由緒あればとて、隠居剃髪の姿を御代官より免じ給い、名主役を勤め、

       即ち、一話と称せし、貞享元年に没せし時、七十三歳なり云々」とあり。

15,横須賀川島氏 − − 伝え云う「先祖 川島庄右衛門は、六百八十年前の頃 鎌倉より横須賀市

       不入斗に移住せるなり。浄土真宗に帰依し、二寺を有す。男寺は、野比にある

       高御蔵五明山 最宝寺にして、女寺は、同不入斗村なる西来寺なり。住宅は武田番城と

       称する有名なる棟梁の作にして今尚存す。家紋、丸に橘なり。川島三郎左衛門は、

       約、千百有余年前、移住し、同家の過去帳には、弘仁六年四月三日と云う仏あり。

       浄土真宗にて不入斗なる西来寺の檀家なり。家紋、丸に橘なり。最宝寺の開祖は、

       明光上人にして、母は源頼朝公の御姉、父は藤原鎌足公の玄孫、右大将従一位

       内麿公五代の後胤、和泉国の国守 信濃守藤原季平 六代の孫 頼康の第四子なり」と。

16,桓武平氏 − − ェ政系譜に「川嶋(先祖仁左衛門諸珍、享保九年三月 御普請役に召し加えられ

       四代にして惟孝に至る。惟孝 実は紀伊家の臣 川嶋平右衛門常福の男にして 茂兵衛

       明高の養子となる)。惟孝(ェ政十年 御勘定となる)−高美、家紋、丸に幹、重幹」と。

       *幹とは「井桁」のことなり。

17,幕臣川島氏 ェ政系譜に「家紋、丸に横木瓜、丸に鳩酸草。藤原支流」と。

18,他


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