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解説 |
和名抄 遠江国蓁原郡に勝田郷あり、加都萬多と註す。 又 美作国に勝田郡あり。中世以後
勝田庄と云う。 其の他 武蔵 下総 陸前 伯耆などにこの地名有り。 青森県青森市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,勝間田氏流 − − 遠江国勝田郷より起こる。カツマタなれど勝田と記すが故に、
カツタとも呼ばれる。
長上郡飯田村 龍泉寺に勝田塚あり、勝田某、この地にて討死にす。
これもカツマタなり。
2,伊勢の勝田氏 − − 飯野郡に勝田村あり、この地名を名乗りしもあらん。
神宮伶人勝田大夫の起りし地なり。
3,美作の勝田氏 − − 当国勝田郡勝田庄より起こる。
当国一宮社蔵、正長二年卯月二十六日文書に
「四郎五郎在判、勝田四郎二郎への譲り状」あり。
4,武蔵の勝田氏 − − 新編風土記 埼玉郡市宿町條に「勝田氏、先祖は勝田佐渡守と号し、
北條氏資に属し、後 太田十郎氏房に従い 岩槻に居住してより、代々ここに居住し、
その子 大炊助も氏房に属して数々軍功ありと云う。北條氏政、氏直、氏繁、氏資、
康成、及び北條氏房より与えし文書を蔵せしが、享保五年、火災に遇いて灰となれど、
その内、氏繁、氏資、氏房等よりの文書三通の写しは伝うれど、さして考証となす
べき事なければとらず」とあり。
又、豊島郡條に「勝田氏、金杉村の名家、慶長以来、当所村町名主の役を兼勤めり。
村内の貧民家居を失い、ややもすれば退転せるもの多かりしを想い、文政三年、
彼の家産維持の謀をなし、予防せしを以って、同八年に東叡山より、その奇特を
賞せされ、熨斗目を服することを免さる。又、近き頃、御鷹場肝煎のことを奉り、
公より三口の扶持を賜い、彼の場所にては脇差を帯し、野羽織を着すべき免許あり
云々」とあり。
又、「勝田氏(同区材木町)、旧家 勝田権左衛門、当町草分けにて、遠祖より代々
当所に住まい仕り候、と申し伝え候えども、名前、年代等、しかと相知れ申さず。
但し、浅草寺観音海中出現の刻、藜を以て小堂を営み申し候。里民 十人の内、
一人は右 権左衛門の遠祖の内にて、即ち当時も浅草寺境内十社権現合殿の内
勝田社と号し候社これあり。且つ又 住居地所の儀は草創の地にて、古来より年貢
諸役とも 地頭より差免しこれあり、沽券、証文 御座なく候事、云々」とあり。
5,秀郷流藤原姓佐藤氏流 − −
陸前国刈田郡勝田村より起こる。
家伝に「佐藤元春の四男 元信より出づ」と云う。
家紋、丸に鳩酸草、蔓輪違。
6,秦氏流 − − 越前発祥なりと。太平記巻二十七に勝田能登守助清とあるは、この
氏なり。秦姓なれど、家伝に「勝田祐清、足利直義に属し、命により
藤原に改む」と云う。ェ政系譜に「家紋 丸に蔦」と。
7,他
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