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解説 |
和名抄 相模国大住郡、近江国伊香郡、に片岡郷あり、 又 上野国に片岡郡あり、その他 大和 伊勢 遠江 相模 常陸 陸中 備前
土佐 などにこの地名有り。 この氏はこれらの土地より起りしにて、数流あり。 栃木県矢板市に片岡の地名あり。 |
分派氏族 |
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1,上野の片岡氏 − − 当国に片岡郡あり、鎌倉大草紙に
「五千町、上野の内、片岡三郎正久」と。
2,藤原姓− − 大和国葛下郡片岡村より起こる。当地方の名族にして、片岡城に拠る。
若宮神主祐臣の正和四年の祭礼記に「流鏑馬十騎、片岡一騎」、
又、至徳元年四月、中川流鏑馬日記に「片岡殿」見ゆ。古くから相当の
地位にあり。戦国時代、片岡新助春利あり、筒井順昭の六女を娶り、
その一門になりて藤原姓を称す。
国民郷土記に「片岡甚左衛門、片岡新助藤原春利(片岡城にて松永久秀
と勇戦あり、三十六才にて当城に死す。筒井順慶の妹婿。知行八千石)、
片岡国春(片岡谷下牧村の城に有り、永禄十二年松永より攻め取らる)。
片岡春行(筒井伊賀守に仕う、慶長十九年冬より大阪城に篭もる)」と。
3,曽根連樋口氏流 − − 大和樋口氏、一時 上記片岡城に拠りしにて、その後裔片岡
を称すと云う。川合村諸色明細帳に「樋口氏は云々、片岡の城主となる。
享徳三年に片岡の城は没落す。その子孫分散して、当代は江戸に住して
片岡庄左衛門と称す」と云う。
元禄十四年の文書に片岡庄左衛門俊垣 あり。
4,河内の片岡氏 − − 永禄二年の交野郡五ヶ郷総侍連名帳に
「津田村 片岡式部允国任、藤坂村 片岡左衛門尉顕長」を載せ、
ェ永十七年三宮拝殿着座覚に「津田村 片岡氏 二軒」とあり。
5,伊勢の片岡氏 − − 桑名郡の片岡より起こるか。三国地志に
「片岡城は、上深谷部村字境にありて、片岡掃部頭(或は亮)居守す
と云う」と。又、「鈴鹿郡高富砦(東條城)は、織田信孝の臣、将監
片岡則宗、その子 則高、その子 則正、
居守。采地五千貫」と云う。
又、名勝志に「奄芸郡長法寺城は、片岡六郎左衛門の居城なりしが、
永禄十二年 信長と戦い、鈴鹿郡国府村に戦死すと云う」と。
6,清和源氏足助氏流 − − 近江の名族なり。片岡氏系譜家伝に
「足助次郎源重範 十六代の後胤、片岡清左衛門義保これを記す」と
載せ「足助五郎重義(重種嫡子、重範六代の孫)足利義政公御代、文明
年中に始めて 山門の坊頭御代官に仰せつけられ、始めて氏を片岡と
改む。家紋、丸に桔梗、瓜に三の桐」と。
7,蒲生氏流 − − 蒲生俊長、片岡三郎左衛門と称す。
8,加賀の片岡氏 − − 加賀藩給帳に
「三百三十石(丸の内に根藤)片岡亮左衛門。百五十石(同)片岡又十郎。
百四十石(下り藤丸)片岡弥三郎」とあり。
9,鹿島姓 − − 常陸国鹿島郡の片岡村より起こる。
片岡神主あり、新編国志に「片岡、鹿島郡鹿島郷片岡より出でたり」とあり。
又、義経の従者に片岡太郎経春あり、同書に「片岡、本姓詳ならず。源平盛衰記に
『当国の住人 片岡太郎経春、同 八郎為春』とあり。判官物語に『片岡こそ常陸国
鹿島行方と云う荒磯にて 素生したる者なり』とあり。因って按ずるに鹿島郡鹿島郷に
片岡と云う地あり。云々」とあり。
10,下総の片岡氏 − − 上記 経春は、下総に所領あり。東鑑 文治元年十一月二十八日條に
「片岡八郎常春、佐竹太郎(常春の舅)に同心し、謀叛の企てある間、彼の領所
下総国三埼荘を召放たれる」とあり。
11,常陸藤原姓 − − 二十四輩順拝図絵に「南庄乘然房は、俗姓は藤原親綱とて、舎兄
鹿島の
神官、片岡尾張権守信親 云々」とあり。
12,清和源氏佐竹氏流 − − 新治郡片岡村より起こりしか。新編国志に「片岡、稲木盛義、
二男義計・片岡源次と称す。後 義勝と改む。二子 義郷、義夏」と。
13,桓武平氏葛西氏流 − − 陸中国江刺郡片岡村より起こる。封内記に「片岡村云々、毘沙門堂、
永徳以来 片岡氏居館の地にあり。明暦中、多門寺中に移る」とあり。
又、同地の白山神社嘉慶元年八月十七日棟札写しに「施主、片岡殿北方」とあり。
また「永正八年二月吉日、施主 片岡平重朝」とあり。
14,丹後の片岡氏 − − 室町時代は片岡氏中 第一の名族なり。
正応元年の田数目録に「與佐郡永久保、十三町七段百五十六歩、片岡與五郎」とあり。
又、康正造内裏段銭引付に「内 六貫八百七十三文、片岡與五郎殿。丹州 永久保、
段銭」とあり。
又、文安年中御番帳に「片岡大和余五郎」、
又、文禄六年諸役人附に「御小袖御番衆、片岡大和守晴親、片岡與五郎輝親」とあり。
15,丹波の片岡氏 − − 当国何鹿郡報恩寺城(同村報恩寺)は、永享年間、片岡近江守の居城なり。
その後、永禄二年、物部城主 上原衛門大輔の為 敗滅す。
16,片岡八郎 − −大和国葛下郡片岡村より起こると云う。南朝の忠臣なり。
「大織冠鎌足の後裔 従三位宰相綱麿(大和国葛下郡片岡に住す、よって姓とす)十一代を
経て、八郎利一(大塔の宮に仕えて功あり、吉野に討死す)十代を経て弥太郎春三、
後年出家して雲巴法師と称し、達磨寺に住す。八郎氏の後裔は片岡基蔵氏とて、現に
大和片岡村に居住せらる、先年 贈位の時の位記は、現に同氏が拝受せられし」と云う。
17,岩清水源姓 − − 石清水八幡宮の旧祠官に片岡氏多し。
衛府司(所司) 片岡家は、清和源氏末流 源元高の後と云い、巡検勾当(
所司) 片岡家は、同 源
遠貞の裔と云う。
18,石清水藤原姓 − − 同じく石清水祠官にして、駒形預禰宜、警護 壮士などに
この流あり。
19,備前平氏 − − 備前国邑久郡片岡村より起こると云う。
略系図は「平貞盛−家衡(鷲尾立家)−経春(片岡立家、大村築城)−弾正経明(
土御門宮仕)−権左衛門経国−九郎庄衛門経兼−右源次経胤(堀川帝宮仕)
−八郎兵衛経信(後醍醐宮仕)−民部丞範季(足利尊氏仕)−片岡某−片岡孫左衛門(
文明十六年、福岡合戦討死)−左七郎(宇喜多秀家仕)−左馬助経助(関ヶ原敗戦)
−五郎兵衛季信(池田輝政仕)−吉信(大庄屋役)−七右衛門経直(肝煎役)−経季(
名主役)−三郎兵衛経布。分家多数の内、片岡七右衛門の弟 五右衛門季直の子
猪大夫則延、元禄八年、七右衛門の濱倉なる幸島村南幸田に出で、子孫栄え、
神職片岡三郎、村社八幡宮片岡別宮天神神主。云々」なり。
20,備後の片岡氏 − − 川手村の名族にして、先祖を片岡土佐と云う。もと首藤氏に仕う、
慶長の頃、福島氏 命じて里正とし、俗称を治兵衛と賜う。その裔を恵助と呼ぶ(
芸藩通志)と。
21,土佐の片岡氏 − − 同国高岡郡に片岡村あり、この地より起りしもあらん。
土佐軍記、南海通記、南路志等にこの氏の掲載あり。
22,醍醐源氏 − − 中世は、南朝の忠臣、幕末は、土佐勤王党なり。系図は以下の如し
醍醐天皇−源高明公(西宮左大臣)−忠賢−守隆−長季−盛長−盛経−経光−盛保−経季┐ |
*盛保(上野国片岡郡を食む、よって片岡を以って称号となす)。
盛経(元弘の乱、官軍に属し殉難)
直綱(土佐片岡氏の祖、応永十八年十二月、始めて土佐国吾川郡
徳光の庄に移り、
一城を築き居る。徳光城とも片岡城とも云う。又、一城を黒岩に築き、吾川 高岡
二郡の地を領す、家紋 揚羽蝶を用う)。
光綱(下総守、長曽我部氏被官、太閤秀吉 南征の際、伊予にて戦死)
23,中臣氏族− −加藤清正の臣に片岡正則あり、子 正方の時、加藤の称号を許される、
加藤右馬允正方は、もと、片岡清左衛門と称す。
ェ政系譜に「家紋、蛇の目、鳩酸草」と。
24,肥後藤原姓 − − 片岡系図に「藤原正家−正光−正行−正忠、弟 正氏−正高−重孝(
片岡家元祖、加藤を片岡に改む)」とあり。
25,藤原南家豊茂流 − − 家紋、丸に鳩酸草、鳩酸草の花葉。
26,清和源氏斯波氏流 − − 本国尾張、赤穂の義士 片岡源五右衛門源高房は、清和
源氏 斯波尾張守高経の子孫にして、本氏は、足利なりと。禄 三百石、
内匠頭長矩の側用人。
27,他
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