鹿   島

解説

和名抄 常陸国に鹿島郡、加之末と註し、郡内に鹿島郷を収む。

鹿島神宮 鎮座す。猶、当国 那珂郡にも鹿島郷あり。

 

又、能登国能登郡に加島郷あり、加之萬と註す、後世 能登郡を

鹿島郡と云うのはこの地より起こりしならん。

 

その他、陸前国亘理郡鹿島村、同 色麻郡(加美郡)鹿島、磐城国

磐城郡鹿島、同 行方郡(相馬郡)鹿島村、同 白河郡鹿島、岩城国

信夫郡鹿島、信濃国安曇郡鹿島嶽、遠江国磐田郡鹿島村、加賀国

石川郡鹿島村、讃岐国小豆郡鹿島村、肥前国藤津郡鹿島村など

あり。

多くは 鹿島神が諸国に分祠されたことにより起こりし地名なり。

 

山形県寒河江市、同 飽海郡平田町、栃木県下都賀郡壬生町、

群馬県藤岡市、同 甘楽郡甘楽町、同 佐波郡赤堀町、埼玉県川口市、東京都八王子市、神奈川県横須賀市、新潟県柏崎市、石川県鳳至郡

穴水町、山梨県南巨摩郡鰍沢町、長野県長野市、同 大町市、

和歌山県日高郡南部町、島根県那賀郡三隅町、広島県安芸郡

倉橋町、同 世羅郡世羅西町、香川県小豆郡土庄町、愛媛県北条市、同 南宇和郡西海町、同 伊予市、高知県幡多郡佐賀町、同 宿毛市、

福岡県柳川市、熊本県八代郡竜北町、長崎県西彼杵郡多良見町、

鹿児島県出水市にこの地名あり。

富山県礪波市のは「カノシマ」、長崎県下県郡美津島町のは

「シカジマ」なり。

 

 

1、鹿島神宮   青山延彝の二十八社考に「鹿島神宮、鹿島郷にあり、祭るところの神、

       武甕槌命、一名 建布都神、熯速日神の子なり。神武帝元年十二月(紀元前660年)

       創祀するところ也。常陸国第一宮、而して これを日本守護神となす。武速治命を

       以って祭神主となす。武甕槌命の子なり。子孫相継ぐ。

       称徳帝の神護景雲二年(767年)、武速治命 三十二世の孫 中臣宗則を植栗大連と

       なし、神主に補し、社務総官号を賜い、従五位下に叙す。その後 相継いで大宮司と

       なし、以って今に至る」と。

  

   *中臣氏、藤原氏の氏神 春日大明神は鹿島の神 武甕槌命(タケミカヅチのミコト)を主神とする

    により中臣の祖先が鹿島の地より出た事により、藤原鎌足が鹿島発祥との説起こる。

    この説は容易に決しがたいが中臣の祖先は大鹿島氏より出ている。

2、桓武平氏 大掾氏族 常陸大掾氏の一族、成幹、鹿島郷にありて、鹿島三郎と云う。その子

       政幹、また鹿島三郎と云う。大宮司系図に「政幹(鹿島惣追補使)−宗幹(屋島合戦 討ち死)

       −時幹( 大掾、兼 惣追補使、鹿島神社如父祖)−高幹(大掾、惣追補使)−景幹(常陸介、

       惣追補使)−重幹(大掾、惣追補使)−高頼(常陸介、惣追補使)−実幹−(出羽守、惣追補使)

       −義幹(大掾、惣追補使)−幹信(大掾、惣追補使)−治時(天正十九年佐竹義重の為に自害、

       城地没落)−女(国分大膳大夫の妻)−胤光(左衛門大夫、惣大行事職相続、実は国分

       大膳大夫の次男、治時 外孫)−胤盛−胤連、胤盛の弟 胤知−胤悦(惣大行事)−幹胤、

       弟 胤続−幹明」とあり。

3、大中臣流 鹿島氏 新編国志に「鹿島、大中臣氏なり。鹿島大宮司 公利の後なり。元弘の

       頃の人を鹿島尾張権主利氏と云う。鹿島南條の内宮本郷の内岡野、葦前、益田等の村を

       領す。又、元弘の勲功にて南部吉景村の地頭となり、かの地に住す。二子あり、嫡を

       式部大夫実利と云い、佐都東郡験主職となる。次を左近大夫将監貞綱と云う。

       鹿島惣大行事に補し 後、ここを去る。塩籠庄の地を領す(塩籠は那珂郡の内なり)云々」

       とあり。

4、奥州の鹿島氏 奥州に鹿島社 甚だ多し。三代実録、貞観八年正月條に「常陸国 鹿島神宮司

       云う、大神の苗裔神 三十八社、陸奥国にあり。菊多郡一、磐城郡十一、標葉郡二、

       行方郡一、宇多郡七、伊具郡一、亘理郡二、宮城郡三、黒河郡一、色麻郡三、志太郡一、

       小田郡四、牡鹿郡一、云々」と。

       これらは那珂国造、磐城国造等、多臣族が蝦夷地開拓の為に勧請した鹿島社の分社なり。

       よって地名が起こり、更に地名を以って数流の鹿島氏を起こすと思われる。

5、相馬の鹿島氏 磐城国相馬郡鹿島より起こる。この地に鹿島御子神社 鎮座せらる。

       当社は古く 鹿島氏 祠官たりしにて、元和の頃には 鹿島大之守藤原良重と云う人、

       祠官たりき。その六代目 義重は、青田氏より養子せしにより、原姓を称して氏を

       青田に改むと云う。

       これより前、古棟札 及び青田系譜に、天暦年中 鹿島大夫あり、その後、長元三年

       四月十七日、鹿島重大夫、保延四年十月二十一日、鹿島清大夫あれど詳ならず。

6、宇都宮氏流 豊前の鹿島氏にして宇都宮系図に「宗房−信房−鹿島康房」とあり。

7、桓武平氏千葉氏流− −千葉系図に「千葉介胤持−同 輔胤−同 孝胤−同 胤実−(鹿島九郎)」と。

8、肥前の鹿島氏 藤津郡鹿島の地は杵島山の山麓にして、有明海に臨む。延喜式に鹿島牧あり。

       太古 鹿島神の鎮座せられし地なり。

       小田系図に「鹿島の神は、九州と常州と東西二社ありて、日本の守護神なり。就中

       常州を本社となす」とあり。

       常陸風土記に「建借間命、土賊征伐の際に杵島曲を唱う」と。

       この建借間命は「武(タケ)カシマのミコト」と読めて第1項と密接な関係あり。

9、菊池氏流 肥後菊地郡大宝寺 圓通寺の縁記に

       「延久元年、後三條院の御宇、鹿島大夫将監則隆」あり。これは菊池氏の祖にして、

       この氏も初めは肥前鹿島にありしものと考えらる。

       後世、菊池族に鹿島氏あり。菊地風土記に、「十八外城の一、戸崎城、今村、鹿島氏、

       代々居す」とあり。

       又 嘉吉三年 菊地持朝の侍帳に「鹿島刑部允隆元」と、

       又 永正元年の政隆の侍帳に「鹿島民部允武詮」あり。

10、他


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る