神   崎 

解説

神前、神埼とも記す。和名抄 常陸国久慈郡に神前郷あり、

後世 神崎村と云う。また、近江国神崎郡は加無佐岐と註す、

天智紀四年二月に初見し、神前郡とあり。郡内神崎郷は、

加無佐支と訓ず。

又、播磨国に神埼郡あり、加無佐岐と註す、風土記には神前郡

と載せ、後世 神崎郡と記す。

又、周防国吉敷郡に神前郷、讃岐国寒川郡に、神埼郷、加無佐木

と註す。

又、伊予国伊予郡に神前郷、加牟佐岐と註し、肥前国神埼郡は、

加無佐支と訓ず。

又、豊後国大分郡にも神前郷あり。

又、庄名としては、下総、備前、備後などの他諸国に多し。

この氏はこれらの地名を負いしにて、数流あり。

千葉県市原市に神崎の地名あり。

分派氏族

 

1,和泉の神前氏 日根郡に神崎神社あり。畠中城(北近義村畠中)は、神崎氏

       の居城なり。天正年間、雑賀根来衆徒 拠る。五年二月、織田氏の兵迫

       るに及び、十六日敗走、後 叉、根来衆の拠る所となる。

       尚、当国神崎氏は、東鑑 文治二年五月二十五日所載に「和泉国一在庁

       日向権守清実の後なり」と。

2,桓武平氏千葉氏流 下総国の名族にして、千葉系図に「千葉新介胤正−師胤

       −師時(号 神崎)−師重、弟に次郎義胤、四郎為胤、六郎胤長、

       七郎時綱、八郎時秀」と。

3,菅原姓 紀伊国名草郡 神前村より起こる。続風土記、神前村旧家神前條に

       「家伝に云う、その祖は菅丞相の三男 蔵人景茂の末子 神前景吉と云う。

       天暦八年、村上天皇より紀州名草郡神前郷を給い、河内国より紀州に移

       る。景吉より十二代神前中務と云う者、長承年中、鳥羽院熊野及び高野

       御幸の時 供奉す。嘉慶二年八月、義満将軍 和歌浦遊覧の時、当家に入

       らる。この時 新殿塀重門などを建つと云う。景吉三十代の孫 善右衛門

       の時に当たりて、将軍家より重ねて神前郷を給う。その文書今現存す。

       善右衛門の子をまた中務と云う。天正年中、織田氏 雑賀征伐の時、戦

       功あり。その時の感状を家に蔵す。景吉三十三代の孫 中務 桑山法院に

       属す。慶長年中、浅野家に仕え代官を勤む云々」と。

4,讃岐藤姓 讃岐国寒川郡神崎郷(神前庄)より起こる。今 引田町にあるもの、

       藤原鎌足公 二十世の後胤と称す。神前下村に常隣城あり。大永年中、

       安藤筑前守、この城を侵す。城主 神前出羽少目これを拒み、長尾宝蔵

       院主をして、強敵退治法を行う。即ち、不動明王の剣鋒に血滴り流る。

       而して安藤敗走すとぞ。

5,清和源氏吉見氏流 美作国勝南郡川辺庄西吉田の名族にして、範頼二男 吉見

       次郎範国の子孫なりと称す。

       又、一説に「義家十四代孫 神崎玄蕃佐家光、元弘年中、足利尊氏に仕

       う、その五世 甚内正英、将軍 義教に仕え、数々武功あり。嘉吉の変に

       殉ず。その七世孫 忠宗、毛利輝元に仕え、天正三年、備中鬼身城の戦

       いに、三村上野助を生け捕る。輝元の感状を蔵せり。後、元和元年

       阪城にて討死にす。その子 忠義、帰農して荒地を開くとぞ。後、大庄

       屋 與惣兵衛、津山住人 神崎次郎左衛門などものに見ゆ」と。

6,桓武平氏貞道流 − − 薩摩の名族にして、鎌倉時代、ェ元四年、神崎太郎成兼、同国出水郡

       英祢(阿久根)の地を賜う。成兼は 平貞道八世の孫と云う。地理纂考、高城郡

       湯田村條に「湯田城、ェ元の頃、神崎太郎成兼の居城なり。後に弟 成継に譲り、

       成兼は英祢城に移る」と。

       又、出水郡山下村條に「英祢城、ェ元四年十二月、鎌倉の命によりて、神崎太郎成兼

       当国に下り、始めて英祢を領す。よって氏を英祢と改む。始め、賀喜ヶ城を治所とし

       後、当城に移る。成兼は、平貞道より八世なり。成兼より、二代 成秀、三代 成光、

       四代 成綱、五代 成友、六代 成忠、七代 成重、八代 成時、九代 良忠、十代 良守

       まで家譜に見えたり。又、その庶子を遠矢次郎太郎成長と云えり。足利尊氏に従い

       数々軍功あり。二代 貞勝、三代 伊成、四代 貞成、五代 成政、六代 成澄までにて、

       以下系図詳ならず」とあり。

7,他


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