金   谷

解説

羽前、磐城、越後、上総、遠江などにこの地名あり。

 

カナヤ・カナタニ、国土地理院のデーターに64ヶ所あり。

 

1、清和源氏新田氏流 新田義重の後、大館氏より出づ。系図に

       「大館次郎家氏−一井貞政−重氏(金谷刑部少輔)−経氏(建武元年、遠江守、修理大夫、

       興国二年六月、伊予国に於いて度々武勇を顕わしたれど、行方を知らず)−政継、弟

       氏政(義貞朝臣に従い北国に落ち越前国に住む)−氏長(金谷孫太郎、越前坂井郡堀江に

       住す)」とあり。

       又、中興系図に「金谷。清和源氏、本国上野、新田義重三代、田中五郎義清末流、

       修理大夫経氏これを称す」と。

       後、備後国に渡り、伊予国に帰りて細川氏に攻められ金谷城落ちるとぞ。

       上州に残った金谷氏は、後世 横瀬氏に属し、その執事なり。

       関八州古戦録に「天正七年、金谷因幡守は、新田の命を含んで云々」とあり。

2、越後の金谷氏 建武中、新田一族 金谷源太左衛門、魚沼郡大桑原の三用城に拠るとぞ。

3、丹後の金谷氏 与謝郡石川城(石川村桝形の上)の城主なり。当城は永正 天文の頃 一色義遠

       ここに拠りしが後、その臣 金谷伊豆守居守す。伊豆守は天正六年冬より義道父子に従って

       八田にあり、七年正月、中山に移りしも沼田変節の為、城落ち後、義俊 害せられて後、   

       居城に帰り、細川陣代 有吉将監の為に陥落。

4、備後の金谷氏− −当国の名族にして、金谷治部道政は山内氏の家臣にして、新市村茶臼山城に拠る。

5、大和の金谷氏 当国 城上郡に金谷村あり。ここより起こりしか。

       十市郡の名族にして、十市氏 配下の将なり。

6、加賀の金谷氏 加賀藩給帳に「二百五十石 丸の内に違鷹羽、金谷多門」とあり。

7、他


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る