金   井

解説

甲斐 相模 武蔵 信濃 上野 下野 羽前などにこの地名有りて

数流の金井氏を起こせり。

茨城県笠間市、長野県中野市、同 塩尻市、岡山県津山市に

この地名あり。

分派氏族

 

1,清和源氏新田氏流 上野国新田郡金井村より起こる。新田系図に

       「義純−時兼−長義(長氏、金井三郎)−長俊−兼義−政義−兼長(

       伊賀守、康正二年、上杉房憲味方となり、羽継原に出陣)−長正(淡路

       守)−義行(豊後守)−長行−義則−長孝−長定−定義」と。

       上野国志に倉賀野十六騎に金井善八を収め、「永禄三年九月、武田信玄

       箕輪の城攻めにて、金井善八、その先陣に加わり、軍功にて金井淡路守

       となり、倉賀野十六騎の旗頭に仰せ付けられ、倉賀野へ入部あり。云々。

       倉賀野城主金井淡路守は、甲州滅亡の後、小田原の麾下となる。天正

       十八年、小田原落城の時死して滅亡す。淡路守は、桃井氏の婿なり」と。

2,桓武平氏三浦氏流 相模国高座郡金井村より起こる。

       平群系図に「忠道、金井などの祖」と。

3,信濃の金井氏 小県郡金井村より起こりしならん。禰津氏被官にこの氏あり。

       当国諏訪の金井氏は、三ッ巴を家紋とす。

4,武蔵の金井氏 当国都筑郡及び多摩郡に金井村あり。関係あらん。

       橘樹郡のこの氏は、新編風土記に「金井氏(北寺尾村)、先祖與十郎と

       云う者、文亀元年八月、細河高庫より軍功の賞によりて、氏を金井と改

       められしと、古文書ありし由を記録して持ち伝えり。高庫と云うは、字

       の誤りにや、疑うべし。されば、さして証しとすべきにあらねど、旧家

       なることは論なかるべし。彼の與十郎、当村に移りしより、名主を勤め

       て、天文八年に卒す、その子孫 市右衛門と云う者、ェ文年中、当村の

       宗泉寺を開基し、享保元年に阿弥陀堂を建立せしものなり」と。

       又、那珂郡の金井氏は「先祖源左衛門は、北条氏邦に仕えしものにて、

       天正十八年、鉢形城(寄居町)没落後、当所に土着せりと云う。氏邦よ

       り与えし知行方の文書及び小田原北条より出せし感状などを蔵す。猪助

       は源左衛門の子などにや、その伝えは詳ならざれど、かの知行方文書に

       当所を賜いしこと見ゆれば旧家は疑い無し」と。

5,越後の金井氏

6,甲斐の金井氏 当国都留郡に金井村あり。この地より起りしもあらん。

       八代郡に金井新右衛門あり、国志に見ゆ。

7,他


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