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岩 崎(イワサキ・イワガサキ) |
解説 |
諸国(85ヶ所)にこの地名ありて多数の氏を起こす。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏武田流 − − 甲斐国山梨東郡(東八代郡)岩崎より起こる。尊卑分脈に
武田信義−信光┬信隆(岩崎)┬政隆−政嗣┬助政 |
甲斐国志に「岩崎館(下岩崎村)、岩崎六世ここに住す」と。
2,桓武平氏岩城流 − − 磐城国磐前郡(岩崎郡)より起こる。岩城氏と同族にして、
仁科岩城系図に
海道小太郎成衡(藤原秀衡妹婿、永暦元年卒)−岩崎三郎隆久−忠隆┐ |
石城古代記に「岩が崎家の始祖 海道成衡の三男 三郎隆久以来 隆綱まで九代
島倉館に居り、三千五百貫文を領したり。応永十七年 中山、駒木根、高坂、
秋山などの一族、岩城親隆と一味して、まづ荒川を攻略し、岩崎に押し寄す。
隆綱 十八才にて討死」と。
3,陸前の岩崎氏 − − 栗原郡岩崎村より起こる。封内記に「大崎氏の家臣にして、
岩崎讃岐美久は、栗原庄宮崎村の古壘に拠りし」と。
4,陸中の岩崎氏 − − 和賀郡岩崎村より起こる。和賀氏の家臣にして、天正の頃
岩崎弥十郎 岩崎城に拠る。
5,紀姓大野氏流 − − 伝う云う「肥後国玉名郡岩崎村より起こる。清源寺文書に「大野伊勢守
紀光脩、正平十四年、大野別府岩崎村」また「天授二年、大野別府岩崎
一分地頭、岩崎式部隆貞」など見ゆれば、大野氏の族なるや明白とす。
而して大野氏は、玉名郡大野と、その対岸 肥前高木郡大野とを占めし
なれば、高木郡の大野岩崎太郎と云うも、同族なり」と。
6,清和源氏木曾氏流 − − 木曽越前守源義基十代の孫、岩崎左馬助源義氏、その子
重義。秀郷流藤原姓 佐野左馬助重綱の男 重長(大永二年八月十五日卒)
その養子となる。系図は
岩崎重長┬重久(岩崎城主)┬重光(伊豆守) |
7,清和源氏里見氏流 − − 系図に
「里見又三郎義宗−宗基−宗助(越後蒲原郡賀茂村)−中澤義虎−義孝−岩崎藤之進」と。
8,清和源氏岩堀氏流 − − 岩堀房明の嫡子 房信、岩崎氏を称すと云う。
9,羽後の岩崎氏 − − 当国雄勝郡に岩崎村あり。この地より起りしもあらん。
又、小野寺氏の家臣にあり、岩崎河内守は、岩崎城主たりしが、文禄年間、
最上家の将 楯岡満茂に攻められ、弟 伊豆某と共に苦戦す(永慶軍記)。
10,桓武平氏渋谷氏流 − − 武蔵国豊島郡渋谷村の岩崎氏は、渋谷氏の族裔と云う。
新編風土記に「下豊沢村宝泉寺に正応五年の碑あり、碑陰の銘によるに、
野崎、岩崎、二氏は祖先を渋谷佐 重本と云いて、渋谷村の領主なり。
重本、豊沢の宝泉寺を開基す。然るに中頃、宝泉寺 殆ど廃伝に及びし時、
野崎若狭佐 重安と云う者、慶長年中 法印実圓を以ってその寺を
中興せし由見えたり。その先祖の墓なりといえど明証なし」と。
又、「比企郡松山に岩崎氏あり。先祖を岩崎対馬守と云いて、北条家に
仕う。その頃かの家より出せし文書数通を持てり。その子孫連綿として、
五郎左衛門に至れり。云々」と。
11,丹後の岩崎氏 − − 当国加佐郡の名族にして、岩崎豊後守は、京極家の家臣なり、河守村に拠る。
12,因幡の岩崎氏 − − 当国法美郡の清水村に岩崎城あり、因幡志に「岩崎弾正の構」とあり。
13,常陸の岩崎氏 − − 新編国志に
「岩崎、久慈郡岩崎村より出づ。大山義在の家士、姓名帳に岩崎越中あり」と。
14,中臣氏流 − − 中臣氏系譜に「(岩出)隆通−正快−在圓(号
岩崎法印)」と。
15,讃岐の岩崎氏 − − 全讃史に「大麻山城、大麻村にあり、岩崎修理介ここに居る」とあり。
16,肥前の岩崎氏 − − 当国木郡に岩崎村有り、この地名を名乗りしもあらん。
深江文書に「弘安四年、神崎荘配分一人、肥前国大野 岩崎太郎 田地 五町 云々」とあり。
17,土佐の岩崎氏 − − 天下の富豪 岩崎家は、土佐国安芸郡井之口村の人
岩崎弥太郎に始まる。
弥太郎、天保五年に生る。安政中、安積良斎の門に学ぶ。後、長崎に至り、
外国の形勢を察す。慶応二年、士籍に列せられ、藩の船舶を託せられ九十九商会を起し、
運送の業に従う。後の三菱商事なり。この岩崎氏は、甲斐源氏の岩崎氏の族にして、
菱を用いるも、その紋より来ると。
又、同国 香宗我部氏も武田氏の族なりと称す。香宗我部記録に岩崎善兵衛あり。
18,大隅の岩崎氏 − −囎唹郡岩川の八幡宮記録に
「当社は万寿二年、岩清水八幡宮を勧請し奉る。その時 御本地等負来る。
その家 岩崎先祖、黒岩先祖也。右 両氏の孫裔 今にこれあり」とあり。
19,他
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