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石 川(イシカワ) |
解説 |
石河と通じ用う、上古以来の大姓なり。 石川の地名は、河内国に石川郡、和名抄に以之加波と註す。 蘇我氏の祖 蘇我石川宿禰の名を負いし地なり。 陸奥国白河郡に石川郷、加賀国に石川郡あり以之加波と註す。 又、武蔵国久良岐郡石川荘、越後国南蒲原郡石河庄、尚 大和国 高市郡の石川邑を始め、諸国に石川、石河の地名甚だ多し。 美濃の石川のみイシコと訓ず。 |
分派氏族 |
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1,武蔵の石川氏 − − 新編風土記埼玉郡麦倉城(麦倉村條)に「当村は明応の頃
開発して石川権頭義俊と云う人居城を構え、即ち領主として住せしが、
羽生の城主 木戸相模守と合戦に及び、石川焼打にせられ、利を失いて
より一村悉く廃地となれり。その時 石川義俊の家臣に鳥海丹後と云う
者、城中を隠れ出で野州に立退き、彼の子孫 慶長の頃又当村に来たり、
再び開発せり」と。
又、「荒木村 三十番神社、これも村内の鎮守なり、もとは石川某の屋
敷の鎮守なりしと、石川某は、元 成田に属せし。成田分限帳に、石川
玄蕃、石川内匠、石川弥右衛門、石川隼人、石川新九郎など見ゆ。これ
などの内なるべし。天正十八年落城の後 当村に土着す」と。
又、多摩郡條に「石川氏(田中村)、名主役を勤めけるに、天明四年
凶作のおりから、隣の里までも己が貯えし粟を施し、或は村内にて火災
に遭いたる者へ家作り 与え、又は、村に貯う穀蔵修理の為、己の金を
出し、積金とし、その利息を以って費用の資をなせりと、八郎右衛門
死後、その子八郎右衛門と号し、家督相続せし処に文化元年四月、御勘
定役廻村の時、父八郎右衛門の奇特な始末を褒賞せりと云う。当村の旧
家にて石川を氏とす。先祖は拝島村大日の縁起に見えたる石川土佐守の
氏族の者と云い伝う、されど祖先の事伝えたる証左なし」と。
又、「石川氏、先祖を石川藤左衛門宗次と云う。相伝う荻原、石川二人
は、昔 瑞雲尼に供奉して、当所へ来たり、それより世々当所に住す。
後 子孫 小宮上野介顕家に仕えしとぞ。遙あと ェ文年中検地ありしに
二人の由緒を訴えければ、居宅のかまえを免除せらる。今に大屋敷と唱
えて、いと広き構えなり。されど二人、ともに古記録を伝えざれば、
その詳なる事総て知らず」と。
又、「小田原北條の家臣 石川土佐守、高月村を領せり」と。
又、橘樹郡條に「小田原役帳に、石川源次郎知行 六十貫文 加瀬郷神尾
越中守分、また後世 石小田新田を開墾す」と云い、
葛飾郡條に「石川氏、豪富にて世々民部と称し、庄屋を勤む、先祖民部
法名道性 慶安四年七月七日卒」と。
2,清和源氏南部流− − 津軽石川より起こる。南部系図に「右馬允安信−石川左衛門
高信(津軽郡代)−大膳大夫信直」と。
又、津軽一統志に「石川大膳大夫高信は、知勇備わりたる老巧の主将なり」と。
又、南部軍鑑に「石川左衛門佐高信は、三戸右馬允安信の弟にて津軽石川の城にありて、
総郡を司令す、安信の子 晴政、晴政の子 晴継 早世して子なし、高信の子
信直を以って
家督とす。元亀二年五月五日、高信 津軽氏に攻められて死し、信直の弟
政信 津軽にありしが、
天正十六年に死す」と。
3,紀氏族石川氏 − − ェ政系譜に「家紋、丸に釘抜、細輪に九枚笹」と。
4,加賀の石川氏 − − 加賀国に石川郡あり、その昔、蘇我石川氏の族蔓延し繁茂す。地名、それに由来するか。
又、この地名を名乗りしもあらん。
加賀藩侍帳に「六百石、紋、丸の内に笹竜胆、以馬廻組、石川兵勝。百五十石、紋、丸の内に雪笹、
以大小将組、石川喜左衛門」とあり。
5,清和源氏義家流 − −義家の子 義時、河内国石川郡にあり、子孫石川氏と云う。
義時−義基(号 石川)−義兼−頼房−忠教−忠頼−義忠−時通−時成[小山氏祖]
義兼の三男 頼清の五代の孫 義継(飛騨守、元弘元年死す)、家紋、笹竜胆。
6,三河源姓石川氏 − −前項 義忠の後と称す。其の系図に義忠の子 時通、
其の子時成、母 小山下野守高朝の女なるが故に、石川を改め
外家の号 小山を称す。其の子氏房−泰信−政康、政康 文安
三年 本願寺蓮如と共に下野国に下り、小河城に居住す。
この時小山を改めて、石川とす。
政康−親康−忠輔−清兼−家成−忠總┬廉勝=憲之−義孝−總慶┐
└總長┐ │
┌――――――――――――――――――――┘ │
└總良−總茂−總陽−總候−總弾 總般 總親 總承−總弾┐ │
┌―――――――――――――――――――――――――――┘ │
└總般−總親−總承−總貨−總管−重之 常陸下館2.6万石 │
┌――――――――――――――――――――――――――――――┘
└總堯−總純−總博−總師−總佐−總安−總紀−總録−總脩−成之−成徳−成秀
*伊勢亀山 六万石 明治 子爵、家紋、丸に篠龍膽、丸に三篠、蛇目。
7,美濃源姓石河(イシコ)氏 − −
家紋 向鶴、鶴目。
8,三河松平流 − − 松平氏の族にして、松平乗寿の子 乗政、故ありて石川を称し、
その男 乗紀松平に復すと。
又、形原松平の庶流 正重、外戚の氏 石川を称せしが、子
正長に至り、
お家断絶。家紋、丸に蔦、笹龍膽。
9,清和源氏福原流 − − 磐城国白河郡石川郷より起る。
尊卑分脈に「源頼親−(福原三郎) 頼遠−有光(初め攝州に住し 柳津と号す。
後、奥州に住し、石川と号す。柳津源太、後、石河冠者)−基光」とあり。
10,物部流石川氏 − − 地理志料引用の石川系図に「康平中、摂津の人 物部有光、源義家に属し、
本郡の代官に補せられ、泉荘に居り、石川氏と称す。足利氏の時に至って、
その私邑数十村を呼んで石川郡と云う」とあり。
11,会津の石川氏 − − 新編会津風土記 河沼郡柳津村條に
「人物石河冠者、名を有光と云う。源頼親の裔なり、何時の頃にか ここに来住すと云う。
今、この村の農民 仙右衛門と云う者 その子孫なりと云えども、系図 文書等の考証とすべき無し。
又、系図に石川有光の奥州に住する由は見えたり」とあり。
12,丹後の石川氏 − − 当国与謝郡に石川の荘あり、この地名を名乗りしも多くあらん。
応仁別記に「一色被官 石川佐渡守道悟、その子 蔵人親貞」とあり。
又、亀山城には、石川悪四郎居り、天正十年、亀山の城主 石川浄雲斎、嶋村城の石川尾張
共に細川氏に降りると云う。
又、江田城(石川村大石の上の山)には 石川玄蕃拠りしが、天正十年、細川氏に追われる。
又、幾地城には石川左衛門尉秀門 居城し、天正十年九月八日、田辺城にて討死す、
その嫡男 文吾秀澄は、弓木山にて、その年九月二十八日討死す。
13,丹波の石川氏 − − 何鹿郡館城は、永禄より石川備後守居城す、慶長五年、
福知山城主 小野木縫殿之介の為に焼却される。
又、氷上郡の石川氏に先祖が河内国石川郡の人あり。
14,坂上流 − − 白河郡石川郷より起こる。坂上系図に
「苅田麿−直弓(田村麿の弟)−光真(一本通行、石河太郎)−安居(鎮守府将軍)」とあり。 |
15,安達の石川氏 − − 安達郡の石川氏は、針道小手森城守たり。四本松(塩松)石橋氏の
家臣にして、石川弾正公国は、大内定綱、小野寺久光、中村久純と並び 山名義久
四老の一人たりしが、義久卒し、その子 松丸の幼弱なるに乗じ、弾正は田村家に
属すと云う。
松藩捜古に「百目木村、昔、石川弾正と云う郷士あり、もとは塩松に属し、
石橋の麾下なりしが、後、田村家に属し、近郷の村主となり、更に会津へ通じ
伊達氏に滅ぼさる」とあり。
16,備中の石川氏 − − 備中府志等に「当国窪屋郡幸山(高山)の城主に石川左衛門尉久式あり、
三村家親に属せしが、天正三年亡ぶ。一時は勢力ありし氏にして、有名なる高松城主
清水氏は、その家臣なりき。石川氏滅亡するや毛利氏、石川数代の地を清水宗治に与う」と。
17,陸前の石川氏 − − 観聞志に「加美郡小野田村城址は、石川長門の居」とあり。
又、野史に「天文中、小野田城主 石川隆重」とあり。
又、封内記に「登米郡佐沼北方邑古壘、伝えて云う『大崎家臣 石川讃岐居る所』と」。
大崎左衛門督隆義家中記に「石川越前(高清水城主)」とあり。
18,津軽の石川氏 − − 陸奥国津軽郡石川より起こる。南北朝の頃、曾我氏一族の
拠りし地なり。康正の頃、石川浅右衛門あり。
19,越後の石川氏 − − 当国沼垂郡に石川村あり、この地名を名乗りしもあらん。
石川城あり、石川氏の居城なり。永禄年間、上杉家臣に 石川備後守為元、石川備後守房明あり。
この石川氏の先祖に石川覚道(室町前期)あり、犬縣上杉氏(関東に居住)の忠臣なり。
20,常陸大掾流 − − 常陸国茨城郡石川の地より起る、常陸大掾系図に
家幹┬助幹−朝幹−教幹−光幹−時幹−盛幹−詮幹−満幹−頼幹−清幹−高幹┐
└高幹┬=宗幹 │
└幹村−幹広−幹清−範幹−成幹−氏幹−宣幹−光幹┐ │
┌――――――――――――――――――――――――――――――┘ │
└満幹−俊幹−久幹−幹国−宗幹−国幹−久国−通国−通幹−通俊−幹道 │
│
┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└常幹−慶幹−貞国−清幹
21,仙台藩源姓の石川氏 − − 伊達世臣家譜に「石川氏は 一門の主席たり、天正十九年、
石川大和守昭光、松山館を賜う。慶長三年、伊具郡角田館に移り、采地 一万二千石。
子 遠江義宗、子 駿河宗敬(宗綱)、その子 大和宗弘、数々新田を開き、前封と合わせて
二万千石の秩となる。子無し、雄山公の三男を嗣となす、主馬宗昭これなり。宗昭、貞享元年、
宇和島候宗利の嗣となり(宗賢)、伊達弾正宗敏の六男 大和宗恒を嗣とす云々」とあり。
22, 備前美作の石川氏
− − 伝え云う「源義家の子 義経、河内国石河郡に拠り、石河武蔵守と称す。
その子孫、歴世 志摩の国主たり、後、濃州河中島の城主となり、明応九年正月、石河泰忠に至り、
奥州富岡の城主となり、その孫 泰永、天文十三年、伊達幾千代の為に落城し、その子 泰正、
遁れて備前に来り、天神山城主 浦上宗景に仕え、赤坂郡を領して、源太夫と改め、
永禄十三年六月 病死。その子 源助正秀、天正五年、宇喜多直家の叛逆により、天神山落城し、
美作に移る、これ美作石川氏の祖なり」と。
23, 小山流
− −
長沼系図に「駿河守宗于の子 駿河守朝重−重政−宗秀−駿河守宗延−宗隆
−遠江守宗広−筑前守政忠(石川と改む)」と。
34,他
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