(ホリ)

解説

摂津 相模 丹波 周防などに此の地名あり。

その他 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

分派氏族

 

1,吉野の堀氏 大和吉野郷の名族なり。殊に賀名生の堀氏は、吉野八旗八庄司

       の一にして、賀名生村 和田に拠る。後醍醐天皇 賀名生臨幸の際、堀藤

       太郎信増、館を以って皇居となし奉る。その子孫 小次郎、永禄年中

       この地に威を振るう。

       吉野旧事記に「堀大膳大夫信増(在 加名生半郷)、人皇九十五代

       後醍醐帝、初めて加名生谷に臨幸の時、即ち、和田村に孤山あり、三方

       は小川回りくねり、崖岸甚だ尖なり。郷士 この山を以って行宮を営ま

       んとす。まづ、堀藤太郎信増の館を以って皇居と為し奉り、宮なりて

       移り住み給う。太郎を召し、勅して旗を賜い、又 従四位下大膳大夫に

       任ぜらる。帝の吉野山に遷幸し給うや、太郎遂に随って戦功あり。その

       子孫 小次郎、人皇百七代 正親町院の御宇 永禄年中なり。その後 天正

       年中、当国住人 筒井順慶、吉野へ乱入す。この時 度々戦功あり、天正

       九年七月七日、鳥尾にて、筒井の為に戦死す。その子孫、今に和田村に

       堀又右衛門某と云う者あり。小次郎より四代の孫なり」と。

2,清和源氏頼光 中興系図に

       「堀。清和源氏、深栖三郎光重男 三郎頼重、これを称す」と。

       又、尊卑分脈に

       「頼光五世孫、深栖三郎光重−頼重(堀三郎)−頼時−時綱」と。

       又、頼時の弟 三郎重胤の後裔と称する者、江戸幕臣に一家あり。

       ェ政系譜に「又兵衛重清−弥七郎重信−源之助高政、家紋 釘抜、瓜」と。

3,伊勢の堀氏 当国の名族にして、源平盛衰記に

       「伊勢国の住人 堀六郎貞保、同 七郎貞俊」とあり。

       又、後世、「朝明郡西野砦は、堀氏居守」と。(三国地志)

4,近江の堀氏 当国の名族にして、第19項の裔と云う。

       興地志略に「坂田郡鎌刃山城(能登勢村)、この山何れの村の中とも

       定め難し。山下は、能登勢、関根、久礼 三村にかかれり。堀氏居住の

       城なりと云う。堀弥太郎親常、平宗盛卿を預かり登る。その後 当国

       にて、所領を賜り、その子孫 永正 天正の頃、堀能登守頼定、同 遠江

       守、同 次郎の三代、京極 浅井に属し、数度の軍功あり」と。

       尚、数流あり。

       当国鍛工に堀六郎兵衛久道(近江守)あり、二世久道(近江守)は、

       久次、金四郎近江と呼ばる、法橋栄泉の男。三世久道は、その男、四世

       は、伊予国の伊達公に仕う。

5,佐々木族井氏流 近江の名族にして、佐々木系図に

       「井源太家実−家綱−長綱(堀弥源太)−範綱(源次郎)−範定(源二郎)、弟 定継(七郎)」と。

6,佐々木族六角流− これも近江の名族にして、佐々木系図に

       「堀部四郎氏綱−時綱(堀越後守と号す。近江国 北堀の祖)」とあり。

7,秀郷流藤原姓 泉氏の属にして、これも近江発祥と云う。

       泉大夫俊宗の子 俊成、堀藤太と称す。その裔なりと。

8,近江菅姓 この流は、萬字、丸に梅、三亀甲、丸に萬字を家紋とす。

       当国浅井郡に堀村あり、又、この地名を名乗りしもあらん。

       蒲生郡史に「堀氏は、野部村に住す。北比都佐村 三十坪、青木清水の

       上に堀殿屋敷の名存す」と。

9,新庄氏流 これも近江発祥にて、幕臣にあり。初め新庄を称し、後に堀に改む。

       ェ政系譜に「遠江守秀基は、坂田郡北庄堀に居住、信長に仕う。後

       同郡蒲葉城に住す。その男 石見守存村−因幡守秀信(新庄駿河守直頼

       三男)−秀嵩−秀景、家紋 左藤巴、亀甲」と。

10,利仁流藤原姓 斎藤氏の族にして、尊卑分脈に

       「利仁−叙用−加賀介吉信−同 忠頼−越中権守則高−能登守助忠−権大夫則秀−季高(号 堀権大夫)」と。

       又、中興系図に「堀。藤原、内麻呂苗裔、越中権守則高 これを称す」と。

11,美濃の堀氏 上記の裔と称す堀氏あり、菅原姓とも云う。系図に

       「掃部大夫利秀−同 利房−同 秀重−秀政(秀吉に仕え越前北庄 十八

       万八百石を領す)−秀治(越後 春日山 四十五万石を領す)−忠俊(罪

       ありて領土没収)、家紋 三亀甲、抱澤瀉、抱茗荷」と。

12,菅原姓 上記秀政の次男 美作守親良は、菅原姓を称す。親良、家康に仕え

       慶長十一年、下野国真岡 一万石を賜う。ェ政系譜に

  親良−鶴千代−美作守親昌−親貞=親常−親賢−親傭−親蔵−親長−親忠−親民−親実−親義−親広−親篤、 信濃飯田二万石 家紋 抱茗荷、丸に向こう梅、明治 子爵

13,土浦堀家 − − 家譜に「秀政の弟 利重(伊賀守、元和元年、常陸土浦一万石を賜う)−対馬守利長(越中守 利昌)

−市正通周(弥太郎、実は、天方主馬倶通の長男、常陸土浦一万二千石を領せしも世継ぎ無く没収)

−弟 主税利雄(三千石)−民部利之−内蔵助利躬−大学利記−主税長尚」と。

14,清和源氏斯波氏族 尾張発祥にして、斯波氏の族、民部少輔満種の苗裔、奥田三右衛門の後と云う。

ェ永系図に「その男 七郎五郎直純−直政−直次(直清)、弟 丹後守直寄−直定(ェ永十九年、

七才にして卒し、家絶ゆ)、家紋 釘抜」と。奥田家の家紋は、亀甲に花菱。

15,須坂堀家 − −上記 直政の二男 淡路守直重、信濃国須坂一万石を賜う。

家紋、亀甲に花角、亀甲に万字。明治に至り、奥田に復す。子爵。

16,椎谷堀家 − −直政の五男 式部少輔直之 ェ永の初め 寺社奉行となり越後国の村松 一万石を賜う。

家紋、亀甲に花角、釘抜。明治に至り、奥田に復す。子爵。

17,村松堀家 − − 第14項 直寄の二男 丹後守直時、越後の村松 三万石を領す。

家紋、亀甲に花角、釘抜、万字。明治に至り、奥田に復す。子爵。

18,三河の堀氏− −当国碧海郡の名族にして、二葉松等に「堀の内城、城主 堀小三郎。古屋敷、浅井六之介」とあり。

19,伊豆の堀氏 − − 当国の名族にして、頼朝の幕府創立に功あり。

平家物語に「堀弥太郎親経」、源平盛衰記に「堀藤次親家(伊豆国)、堀弥太郎親弘」と。

又、東鑑に「堀藤次親家、堀平四郎助政、堀弥太郎景光」等の名あり。

20,相模の堀氏 翁草に鎌倉武士の所領として「三千町 堀九郎近忠、千町(相州の内) 堀太郎経高、

千町(相模) 堀佐助経次」とあり。

       又、後世、小田原北條家臣にこの氏あり。ェ政系譜に

       「勝政(九郎兵衛、土井利勝に仕う)−政之−正尚=九兵衛政長−九郎兵衛正礼−政徳」と。

21,桓武平氏千葉氏族 − − ェ政系譜に

「その先、原氏にして、後、改めて堀を称す。胤氏(太右衛門、津軽出羽守信著に仕う)−氏格−胤定、

家紋、九曜、左三巴、瓜に菊」とあり。

22,加賀の堀氏 − − 前田家家臣に堀才之助あり。

加賀藩給帳に「三百石(紋、丸の内に違鷹羽)堀半蔵、五百石(紋、丸の内に違鷹羽)堀精作、

三百石(紋、丸の内に違鷹羽)堀忠左衛門、百五十石(紋、丸の内に違鷹羽)堀與八郎、

三百三十石(紋、三亀甲)堀為平、百五十石(紋、三亀甲)堀小左近、二百石(紋、

丸に亀甲内花菱)堀信左衛門、二百石(紋、五本柵)堀六郎兵衛、十人扶持(紋、亀甲内に花菱)堀周庵、

百石(紋、蔦)堀鑽、十五人扶持(紋、五本柵)堀新之丞、二百二十石(紋、花菱)堀学之丞」とあり。

23,日下部姓 − − 越前の堀氏にして、天智天皇の後裔と称す、朝倉氏と同族なり。

後世、小田原北條氏に仕える者あり。その男 堀勝政は、土井利勝に仕えて功多く、その男 政之、

その男 政尚、その養子 政長、その男 政禮、その男 政徳なり。

24,越前の堀氏 − − 朝倉家重臣にあり、伝え云う「浅井氏が織田信長と戦いし時、朝倉の家臣 堀甚助、

久保田勘十郎、平泉寺衆徒 玉泉坊と共に、浅井家の援兵として浅井郡の芝山城に立て籠もる」と云う。

25,丹波の堀氏 − − 当国天田郡の名族にして、伝え云う「大内城(大内村)は 堀氏の居城也。先祖を

堀左京亮貞政と云い、その二十九代 堀上総進貞次は、大永中の人也」と。

又、氷上郡にありて、丹波志に「堀氏、太田村東と云う所に、古家也。安永三年より三百

九十七年以前、恵日寺開山 入寺境内に谷川あり、是を堀り換え、東に河を付く。堀氏を賜う」とあり。

又、「堀氏、子孫 挙田村、先祖は 佐野高見ヶ城に籠る。仁木氏の臣也」と。

26,播磨の堀氏 上月記、康正二年、大和宇智郡に向う人数着到に、堀兵庫助 あり。

       又、赤松家風條々の事に「当方 御年寄 堀」とあり。

27,備前の堀氏 − − 第2項 頼時の裔と云う。堀氏系図に「堀三郎頼重の二十世の孫 又兵衛重清 紀伊に住し、

寛文八年没。その男 又右衛門重政−弥七郎重信−源之助高政−弥七郎義高−五郎義信−次郎重度

−弥七郎重幸−由蔵(出雲、大福氏となる)」と。

28,美作の堀氏 − − 東作志に「後鳥羽院御宇の鍛冶、建久年中の人、堀坂住と銘す。或いは 朝貞同人と云う、

又、忠貞とも」とあり。

又、真庭郡垂水村の名族にこの氏ありと云う。

29,安芸の堀氏 − − 浅野藩の儒者に堀正章あり、杏庵、杏隠等と号す。近江の人、医師なり。

藤原惺窩に学ぶ。武家系図を著わす。

系図は「正章−正英−正朴−正修(南湖と号す)」。

30,御神本氏族 − − 石見の名族、福屋氏の族にして、市木因幡守兼宗の男 小太郎重利、堀を称す、桜尾城主なり。

石見志に「邑智郡市木村の桜尾城主 因幡入道兼旨・福屋兼景二男 兼宗、その男 堀小太郎重利。

永禄二年、重利、毛利の為に市木三坂に敗られ 城中に死す」とあり。

31,土佐の堀氏 当国の名族にして、天正十六年文書に堀與平の名あり。

       又、香宗我部家臣に堀與平 あり

32,紀伊の堀氏 − − 続風土記 那賀郡東野村旧家條に「地士 堀権之丞、明神の座の上頭なり。

今、屋敷の前に堀あり、古は城なりと云う。大和国賀名生村の堀氏と由緒ありとぞ。

思うに かの地より この地に移り来れるならん。後醍醐天皇、この家に臨幸ありなど

云い伝うれども、何れの時とも旧記伝わらず。思うに大和にての事を伝えたるならん。

今 家に伝うる所、古き旗拝吹散あり、菊の紋を付けたり。又、津田監物の砲術の書 五巻を蔵す」と。

又、湯之本村の地士に堀源左衛門あり。

又、神田村の地士に堀源兵衛あり。

33,嵯峨源氏 − − もと堀江氏なり。鎮西の立花家臣 堀江安芸守の支流 堀を名乗ると云う。

又、「立花順之助名代 堀筑後守」など記録にあり。

34,少貮氏族 − − 少貮系図に「経資−貞資(加茂左衛門尉)−経基(城又次郎)−経勢(堀三郎、

延文四年 大原に於いて討死)」とあり。

35,筑後の堀氏 − − 正安中、青木郷主に 堀右京進あり。

開基帳に「青木村老松宮、正安二年、領主 堀右京進 勧請」とあり。

又、高良山 永禄十二年文書に「堀右京亮」と、

又、筑後領主附に「門戸の士・堀氏」とあり。

又、町野系図に「問注所 三郎兵衛政連の妹(堀次郎右衛門の妻)」とあり。

36,肥前の堀氏 有馬家重臣にして、貴澄花押文書に堀兵部少輔を載せ、

       有馬世譜に足利直冬の感状など、多くの文書を蔵すとあり。

       又、大村藩にもありて、士系録に藤原姓とし、香取、河上、田崎などの

       諸氏に分かれると云う。

37,他


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