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平 本(ヒラモト) |
解説 |
ヒラモトの地名無し。 ヒラホンと読む地名は、山口県玖珂郡周東町にあり。 |
1、下総の平本氏 − − 新編風土記 葛飾郡條に「平本氏(三輪野江村)、下総国の浪士 平本主膳定久と
云える者来りて伊奈忠治に属し、慶長十七年、本村を開発し、氏を平本と改む。家系などに
よるに、先祖 高城大膳亮定景、かの城主 高城下野守定胤に仕えて老臣たり。天正十八年、
太閤秀吉 相州 小田原攻めの時、同国山中に出張して戦死す。時に時定の子 定久、三才
なりしを、母携えて下総国 貝塚村に潜居し、成人の後、主膳定久と称す。十八歳の時
当村に来り、伊奈忠治に従いて村内を開発せり。その功により地所を賜いて土着せしに、
後、その子 定勝に跡を譲りて 己は同国相馬郡中谷原村に移り、次男 清左衛門をして、
その家を継がしめ、今に子孫その地に残れり。云々」とあり。
2、武蔵の平本氏− −当国橘樹郡條に「平本氏、羽沢村 先祖は北條家に仕えしと云い伝えれども、
させる旧記もなし。今、家宝なりとて、愛染の像を丸き厨子に収む。その像は尋常の形
なれども、いかにも艶かしき彩色の様、古色なり。その伝来は徳川秀忠 関ヶ原御陣の時、
御守本尊として御懐中ありしを、御一統の後、家光より真田氏へ賜り、その後、家臣
望月主水と云う者に譲り、それより主水、また喜兵衛の先祖 某へ与えしとなり。この
主水は仕官を返して後、出家となり広英と云い、神奈川宿 能満寺の住職となり 遂に
高野山の寺務 誓願寺に住せり」とあり。
3、他
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