樋   口(ヒグチ)

解説

山城 武蔵 信濃 下野 陸奥 肥前などに此の地名あり。

茨城県下館市、福岡県大牟田市にこの地名あり。 

分派氏族

 

1,和泉の樋口氏 日根郡の名族にして、樋口彦右衛門は、尾崎村の人、秀吉に

       仕え、船奉行となり、後 淡路守と号す。野史に

       「慶長十九年十一月、大阪道頓堀下流某村砦に樋口淡路守雅兼、中村

       木工右衛門尉一晟を置き、西国兵船を防ぐ。又、同 福島新家に番船を

       置き、高宮備中守、樋口丹後守(淡路守の弟)、これを護る」と。

2,摂津の樋口氏 大野村、福村などの名族なり。

       樋口伊兵衛は、大野村を開発し、その孫 忠兵衛は、福村を開発す。

       又、浪花の書家に樋口舟月あり。

3,藤原北家道綱流 雲上家の称号にして、尊卑分脈に

       「大納言道綱−兼経−敦家−敦兼−季行−定能( 樋口大納言)」と。

4,藤原北家高倉家流 雲上家の称号にして、高倉権大納言永家の二男 左中将

             親具の二男 信孝を祖とす。尊卑分脈に

 信孝−信康−康熈−基康−冬康−宣康−寿康−保康−巧康−静康−誠康 羽林家 新家 二百石 明治 子爵、家紋 釣り巴。

5,山城の樋口氏 前二項の他に、京都の国学者に樋口宗武あり。

6,中臣氏族 中臣系譜に「意美麿九世孫 公範−輔元−範任(樋口斎宮主神司)」と。

7,伊勢の樋口氏 桑名郡の名族にして、樋口内蔵介は、桑名南城に拠る。

       三国地誌に「西堡。按ずるに樋口内蔵介居守。一説 樋口右衛門云々、

       以上を桑名の三城と云う、城跡詳ならず」と。

8,近江の樋口氏 小野沢の士に樋口石見守あり、秀吉に仕えて千石を領し、

       朝鮮の役に従軍して、死すと云う。この人、観世信光に従い、樋口流

       太鼓の祖となる。その男 甚七、家康に仕え 子孫 久左衛門と称すとぞ。

9,中原姓 信濃の名族中原兼遠の子 兼光、樋口を称す。木曽義仲に仕えて名

       あり。伝え云う「樋口氏は、朝日村樋口にあり、中原兼遠の男二郎兼光、

       木曽義仲の命により、ここに築城して氏とす。兼光、京師に誅せらる。

       遺児 樋口兼重、年六歳にして暫く潜居す。後 建久八年、鎌倉の内府に召され、

将軍頼朝に謁して所領安堵す。その子 長門守兼朝−光久−光頼−光忠−光時−光平

−光家−光安−光忠−光信−光守(保科正直に仕え、羽州山形に移る)」と。

10,藤原南家工藤氏族 − − これも信濃の伊那の名族にして、宅跡は、同郡の松島にあり。

工藤犬房丸り末孫 世々 高遠城に仕え、樋口弾正忠は、五十貫文を領す。

武田氏の為に滅ぶと云う(伊那武鑑)。

11,甲斐の樋口氏 − − 当国甲斐郡の名族にして、木曽中原権頭兼任の次男 樋口次郎兼光の末流と云う。

一蓮寺過去帳 明応六年に「樋口加州」の名あり。

又、誠忠旧家録に「木曽中原権頭兼任の次男 樋口次郎兼光の末流 樋口伊豆守正吉の後胤、

六ケ村 十一社 執職、御朱印五石四斗余、布施村神主 樋口右京助正名。同後胤、樋口弥七正兼」とあり。

12,清和源氏高屋氏族 − − 尊卑分脈に「満季十一世の孫 奥二郎義盛(高屋、小椋、坂東條参照)の子

良賀(樋口大夫阿闍梨)、その子 永源(兵部阿闍梨)」とあり。

13,清和源氏満快流 − − ェ政系譜に

「右京亮貞家(武田信玄に仕え 越後陣討死)−又兵衛吉次(勝頼、後 家康に仕う)

−又兵衛家次(一に正孝)−四郎左衛門正信、弟 五郎右衛門敬孟−三右衛門則孝

−五郎右衛門敬國−九十郎輝孟(実は樋口弥左衛門の男)、家紋、丸に三引、抱牡丹」と。

14,藤原姓 幕臣にして、ェ政系譜に「始め樋口、松軒政次(外科医)の時、

       橋本に改め、その男 半三郎政勝に至りて樋口に復す。その男 惣三郎武政 也、

家紋 丸に竜胆、九曜、笹竜胆」と。

15,武蔵の樋口氏 − − 豊島郡の名族にして、太田道灌の近臣に樋口與三郎あり。

16,秀郷流藤原姓 − − 出羽の名族にして、小野寺氏の族なり。樋口弥五郎道守(南北朝時代の人)より出づ。

山北小野寺遠江守義道家の人に「樋口要害」あり。

17,越後の樋口氏 − − 当国古志郡の与板城は、一説に預伊田城とも記す。与板山中にあり、樋口氏 拠る。

この樋口氏も樋口兼光の後裔と云う。長尾房景の家臣 樋口與宗左衛門の子 與六郎兼継は、

天正五年、毛利名左衛門に殺された直江大和守実綱の遺跡を継ぎ、直江山城守と云い、

即ち、直江兼継なり。兼継の父は、一説に樋口與左衛門とも、樋口惣右衛門とも云い、

また系図には「兼継(実は 樋口伊予守兼豊の男)」とあり。

又、上杉景勝家臣に樋口内膳正あり。

又、東頚城郡の直峰城は、樋口伊勢守の居城なり。

又、弥彦神社の神主にも樋口氏あり。

18,美作の樋口氏 樋口勘三郎あり、吉野郡大野保の名族なり。

19,丹波の樋口氏 − − 当国天田郡の名族にして、丹波志に「樋口氏、子孫 下村、地士なり」とあり。

又、「樋口氏、子孫 河合村加用。先祖 大阪の陣に出づ。鑓、長刀、刀脇差、今在」と。

又、「樋口加賀守、子孫 河合村岼」と。

又、「樋口讃岐、子孫 河合村 下河合、樋口加賀守の弟と云い伝う。屋敷の近所に墓あり」と。

20,土佐の樋口氏 − − 幕末、土佐勤王党に樋口信吉あり、幕末維新に関する膨大な記録を残す。

父は、信四郎正虎と云う。

21,豊前の樋口氏 下毛郡の名族にして、元亀天正の頃、樋口民部允あり。

       又、自見系図に「樋口太郎丸満、丙辰の冬十月十日、氏神祭礼の時節、

       池永殿招請、その還送、夫婦共沖内に罷り出で、広津某殿 害に逢う云々」とあり。

22,源姓 − − 筑後の名族なり。樋口系図に

「家紋、亀甲、藤丸。実安()樋口氏の始祖を次郎太郎と称す。京都の樋口小路の産なり。

星野胤実を養護するの故を以って、嘉禄二年、胤実の二男 実隆と共に、星野に来り、

十籠に居る。子無くして 実隆を養いて嗣子となす。星野家に隊長七人ありて、七組と号す。

樋口氏は その頭領なり、云々」と。

23,平姓 − −筑後国上妻郡酒井田の農夫 樋口市兵衛 家蔵の系図に

「樋口庄司康正、遠祖は 菅公に従いて、筑前に来り、入部 郷の地頭職となり、

世々相続 ここに居る」と。

又、福島 住、樋口藤蔵正輝の家記に

「樋口左近正光は、平氏、平松参議時行の苗裔・樋口宮内卿基康の養子、樋口庄司康正の

支流なり。山城国宇治郡の夷島に於いて所領あり。天文二十二年、左近の兄、樋口修理正時、

筑前国に入部、地頭となる。元亀三年、弟 左近、酒井田壱岐守の養子となり当国に来り、

天正九年、父の病を以って代将となり、出でて 龍造寺の兵と戦い、遂に戦死し、壱岐もまた

ついで卒す。ここに於いて酒井田家没落し、左近の子 藤左衛門、尚 幼少。而して孤なり。

身を当所 光明寺に託す」と。

24,筑前筑後の樋口氏 − − 田中家臣知行割帳に

「二百石 樋口才蔵、三百石 樋口藤左衛門、二百五十石 樋口清次」とあり。

又、筑後国山本郡の八幡宮、元禄二年の棟札に「鍛冶、樋口左近丞」とあり。

又、筑後国上妻郡の大庄屋 樋口甚蔵源清は、藩校 明善堂 創設の際、百八十万銭を

寄付する。その曾孫 勇夫(銅牛)は、明治・大正・昭和期の漢学者・書家・俳人なり。

25,藤原南家相良氏族 − − 相良系図に「船越権守景広の子 駿河権守遠兼、樋口、落合、今井の祖」とあり。

26,藤原姓田崎氏族 肥前の名族にして、大村藩藩士録に「藤原姓、田崎越前、

       代々 彼杵村樋口に住す故、樋口を以って氏となすと云う」とあり。

27,他


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