(ヒガシ・トウ・アヅマ・ヤマト)

解説

諸国にこの地名(210ヶ所)ありて多数の氏を起こす 

分派氏族

 

1,吉野の東氏 吉野三十六公文の一の旧事記に「河野郷公文。大西氏、東氏、

       伊藤氏。大西助五郎、東稔宗両士は、強弓達人なり」と。

       稔宗は、長禄の変、二宮を討ち奉りし中村弾正を射落せし人なり。

       又、江戸時代、十津川郷槍持由緒書に「下葛川村庄屋 東儀左衛門、

       谷垣内村庄屋 東吉之丞、小坪瀬村庄屋 東新之丞」などあり。

2,河内の東氏 交野郡五ヶ郷総侍中連名帳に「芝村惣侍中、東勘七郎家長」を載せ、

       又、茨田郡諸福村の名族に東治左衛門あり、慶長元年、勝福寺を建立す。

3,秦姓 松尾神社の社家にして、神主、権神主、権禰宜、権祝などなり。

       何れも秦姓なれど、神饒速日命の後裔と称す。

4,秀郷流藤原姓 伊勢の名族にして、「佐藤左衛門尉公清−帯刀大夫公澄

       −知基−伊藤基景(東氏と号す)」と。伊藤を参照のこと。

5,伊賀の東氏 元禄の頃、東七郎兵衛あり、那賀郡安楽寺を今の地に移す。

6,度會姓 伊勢外宮の祠官にして、風宮内人物忌家系に

       「東(御炊物忌)度會吉貞家系、平常縁六代の孫 初代道水。同 血系

       源義家六男 森義隆の十二代栄栄(小林氏)」と。

7,清和源氏善積氏族 尊卑分脈に

       「満政−駿河守忠隆−出羽守齋頼(康平元年)−忠清(東四郎)」と。

8,江州中原氏族 近江の名族にして、江州中原系図に

       「分瀬三郎左衛門尉英経の子 昌経(号す 東源三)」とあり。

9,近江の東氏 蒲生家並びに家老五手與頭家中の旧臣に東毛兵衛あり。

10,美濃の東氏 郡上郡冠城(栗巣村)は、千葉介常胤の六男 東六郎胤頼の築き

       しものにて、後に篠脇城に走る。胤頼は、治承中、頼朝に従いて戦功

       あり、郡上郡山田庄を賜い、それより子孫世々この地に住す。篠脇城は、

       郡上城とも云う。東胤頼、冠城より移り、承久中、その孫 胤行 築くと云う。

その後の系図は

       「胤行−氏村−師氏−益之−氏教、弟 常縁−元胤−常慶、弟 盛胤(遠藤)」なりと。

       応仁二年、斎藤利藤(道三の先祖)拠る。

11,遠藤氏族 − − 上記 東常慶は、初め郡上城に居る。天文十年築き、居城す(東殿山城)。

その子 常堯は、無道にして、一族 遠藤新兵衛を殺す、新兵衛の弟 盛数(盛胤の孫)、

仇を復し 城を攻めて之を取ると云う。明治に至り、東氏に復す。近江 三上藩 一万二千石、

胤城−胤禄、明治 子爵。家紋、一亀甲、十曜、月星、三亀甲。

12,飛騨の東氏 − − 続風土記等に「千葉常胤の六男 東胤頼の後なり。その子 重胤を経て孫の

胤行に至り、始めて濃州郡上郡の山田庄、外 数ケ所を領す。代々和歌に巧なり。

殊に八代の孫 東下野守常縁を最とす。その孫 東七郎常堯、去って本州に住み、甲城に拠る。

後、三木直頼に亡ぼされしが、今も本郡内に千葉氏、東氏などあり」と。

13,清和源氏満快流 − − 信濃の名族にして、尊卑分脈に

「満快−東伊豆守行頼−景行(東太郎)−景方(東四郎)−時景(東三郎)−景重(東二郎)」とあり。

14,桓武平氏千葉氏族 下総国海上郡(香取)東庄より起こる。

       千葉常胤の六男胤頼・その地頭となり、子孫 東氏を称し当国の大族なり。

15,下総の東氏 −東 胤頼、海上郡東庄三十六郷を領し、森山城に拠る。

       森山城は飯田城とも云い、又 古戦録・廃城考等に東野城とある。即ち

       東氏の居るところにして、旧事項に橘城と云うも同じ。蓋し 海上東庄

       の庄司の旧跡にして、橘庄と云うも これに他ならず。承久以後、東氏

       美濃を兼知して、子孫二つに分かれ、一つは美濃 郡上郡に移り、

       一つは本領を伝えて、天正十八年に至る。

千葉支流系図に「胤頼(東六郎太夫)−重胤−胤行−泰行−行長−胤長−胤秀−胤元」と。

16,鹿島流 − − 上記 泰行の後なり。

鹿島当禰宜系図には「泰行−行長−胤長−胤顕−胤秀−胤元」とあり。

17,中臣姓 − − 鹿島神宮の祠官にして、当禰宜、物忌代として勢力あり。中臣姓なれど、一時 平姓と

混じり、後世、桓武平氏とす。当禰宜系図に

「國摩大鹿島命−臣狭山命−雷大臣命−弟麿−久代−長足−狭島−伊比麿−乙勝−多兄麿

−足名−真聞麿−興長−長元−武麿−健目連−佐奈美−藤実−尹経−仲文−名知志−以宜

−言成−好香−好隆−孝季−親光−親政−親忠−忠恒−常真(賜姓中臣鹿島連)−時風−時資

−時常(権禰宜)−常元(当禰宜)−時貞−貞長−秀長−長治−長淳−長光−光広−光定−光章

−光信−光貞−貞基−基春−基道−道長−道資−資緑−緑長−長重−重経−経正−正清−正重

−重常−常長−家長−長貞−貞広−忠長−清長−孝長−繁長−胤長−胤栄(元禄二年申官位、

従五位下、長門守と号す)−胤貞−胤保(物忌代)−胤充−胤親−胤承−胤寿−胤吉」とあり。

18,清和源氏佐竹氏族 − − 常陸の名族にして、佐竹系図に「佐竹義治−(東)政義(東左近将監)」とあり。

新編国志に「東、久慈郡小里村より起る。義治の五子 政義、九郎、左近大夫、将監。

初め山縣に居り、後、小里に移る。地 大田の東にあるを以って 人呼んで東殿と云う。

子 義堅、左近大夫将監、子 義喬、薩摩守、元亀中、義重を助けて家政を見る事数年、

子無し、弟 義久、中務大輔と称し、義重、義宣に仕えて 賛画の功 頗る多し。文禄中、

鹿島、真壁の二郡の地 六万石を食む。その子 義監、将監と称し 従って秋田に移る」とあり。

19,幕臣東氏 第14項の族なり。ェ政系譜、平姓 良文流に収む。系図は、

       「良胤(宗雲、法眼)−貞胤(宗雪)、家紋 五七桐、九曜」と。

20,陸前の東氏 文治五年、奥州征伐の功により、東六郎大夫 黒川郡を賜う。

       千葉参照。

21,清和源氏足利氏族 − − 奥州斯波家の属、孫三郎の叔父民部は、志和郡犬吠森にありて、東を称号とす。

22,清和源氏南部氏族 − − 陸奥の名族にして、南部家譜に「守行−信政(東三郎)」とあり。

地名辞書に「南部系譜に四祖政光(系図 政元)の次弟 東次郎政行の子を、又次郎師行、六郎政長とす。

東殿とは 名久井工藤氏の称号なれば、そのいわれあるべし。されど、又次郎師行は、

元弘 建武の世の人なれば、東次郎政行より三 四世の後の孫ならん(三戸の十二祖 政行と

混同すべからず)。又、東の名義について考えれば、八戸、九戸を当時 牧制の上に、

九个部の東門と唱えしに注意すべし。師行 政長は、その父祖の時より、早く糠部東門を

知行して 工藤氏以下と相並びし家と推断せらるるに非ずや」とあり。

又、八戸系図に「元亀二年八月、八戸政義、東政勝()名久井の村 七村を取る。

所謂、正法寺、根岸、能澤、切屋内、高屋敷、上市川、下市川なり」とあり。

23,丹波の東氏 − − 当国氷上郡の奥新道具城(中竹田村)は、東氏の居城かと云う。

丹波志に「東氏、子孫 中竹田村 奥新道具。奥新道具に古城跡あり。東様と云い伝え、

又、東株と云う。往古 大森一宮の郎党 六人、東国より来り、六人の内の子孫なり。

その大将の塚を祭る神かと云う。東氏 百姓となりて住し、天正の頃、黒井の城に奉公し、

又、帰りて百姓となる」。

24,日下部姓 − − 但馬の名族にして、日下部系図に

「朝来山本領主 家貞−日下大夫家次−家広(東三郎太郎)−家頼(東三郎)−家道(東太郎)」とあり。

25,但馬平姓 千葉大系図に「東 胤朝、承久中、功を以って但馬国磯部の荘を賜う」とあり。

26,伴性富永氏族 − − 石見の名族にして、富永左衛門尉祐忠の二男 祐東より出づ。

出羽系図、東氏家系図、石見志等に「祐東(馬原次郎五郎、和泉守。分家して東氏と称す。

出羽祐忠の二男。天文六年卒)−祐之(越前守)−祐時(又 祐知、越前守、永禄九年卒)−祐慶(

又 英道、又 祐豊、左衛門尉、永禄十年卒)−直孝(又 祐光、又 祐貞、和泉守、元亀四年没)

−祐秀(又 英好、又 祐幸、刑部、天正十三年卒。弟 彦左衛門は 東文吉の祖)−祐則(又 直久、

又 友忠、和泉守、天正十七年卒。弟 孫右衛門は 大和守、岩国東の祖)−祐信(又 英綱、大和守、

天正十八年卒)−祐真(又 直倫、加賀守、文禄二年卒)−祐政(又 英寿、伊賀守、慶長十年卒)

−祐朝(又 寿倫、五郎兵衛、元和五年卒)−祐清(又 宗吉、五郎兵衛、出羽代官を勤む、元和

元年卒)−宗造(五郎兵衛、東、有井の二家を管す、ェ永十九年卒)−正道(五郎兵衛、寛文八年没)

−道時(伝左衛門、元禄四年没)−元寿(與三兵衛、養子、実は竹内常右衛門の二男)−寿胤−五敬

−立徳−見立−太仲」とあり。

27,桓武平氏土肥氏族 − − 小早川系図に「朝平−宣平−貞平−東房平」とあり。

28,備後の東氏 − − 芸藩通志に「奴可郡蟻腰山は、八鳥村にあり、東兵部政幸(一に誠幸)の所居。

伝え云う、政幸は 天文の頃、宮景盛の婿なりしが、讒を蒙り、景盛の為に討たれ、防ぎ戦いしが、

終に自殺して落城す。大佐村社人が持てる旧記によれば、神祠 応永、辛卯、天文乙未、天正辛巳、

並びに東氏造営とあれば、数代居りしや。また政幸は、天正の頃、宮知盛に亡されしにや」とあり。

29,熊野の東氏 − − 紀伊の名族にして、和田氏文書に東四郎頼仲などの名あり。

又、太平記巻二十八、義助 予州下向條に「熊野の新宮別当湛誉、湯浅入道定仏、山本判官、

東四郎、西四郎以下の熊野人共、馬物具、弓矢、太刀、長刀、兵糧に至るまで、我劣らじと

奉りける云々」とあり。

又、続風土記、三木荘 三木里浦條に「三木新八宅跡、今村中に一族 東兵庫、大倉丹後と云う者の

末孫と云い伝うるものあり」と。

又、花井荘 相須村條に「村中に東六郎右衛門尉盛房の子孫と云う者あり、盛房は 本宮竹坊に伝わる

古き連判列名の内にあり」と。

30,藤原姓 盛嘉の後と云う。

31,土佐の東氏 当国の名族にして、一條家臣なり。後、東四郎衛門あり、

       長浜合戦に吉良民部を討ち取る。

32,肥前の東氏 − − 建暦元年五月十七日の河上文書に「東三郎大夫兼安」の名あり。

又、藤原有馬世譜に「雲龍公、諱は 貴純、云々。公 御女を大村信濃守純伊に嫁せらる云々。

この一條を大村家譜によりて記す。再案するに、享和中、系譜糺の問書に『東大膳大夫純量の娘を

養女として、大村信濃守純伊に嫁し遣わすや』の事あり。右娘は、貴純の姪の続にて、純量へ

貴純姉妹の中嫁したるやの問いあり。よりて案ずるに、純量 恐らくは、雲龍公の庶弟ならん。

又、下の一説によれば、この娘 並びに康純も不受公の弟妹なるべし。康純、或いは虎松に

作れるもあり。字の似たるによりて誤れるにや」とあり。

33,肥前の千葉族 − − 当国の名族にして、鎮西要略、明応四年に

「大内介義興、太宰少弐を追討す。東弾正少弼尚盛、先陣となり高祖城に来りて 原田興種と會す」とあり。

又、龍造寺隆信の譜に「明応七年、筑紫満門、東尚盛・千葉胤盛と合戦す」とあり。

又、鎮西要略に「永正七年、春三月十三日、肥前国の守護代 千葉介興胤、同 嫡子 喜胤・

東弾正少弼尚盛と相談合して、同姓の胤治を夜討ちして殺す」とあり。

又、「同八年春二月、千葉喜胤・東尚盛と同陣して、西南に発向して杵島郡に至り、渋谷と相戦う。

渋谷軍敗れて 大村に引退く」とあり。

34,菊池氏族 − − 肥後の名族にして、菊池系図に

「経宗(菊池太郎、鳥羽院武者所)−経直(菊池七郎)、弟 俊直(東次郎)−俊景(東小三郎)」とあり。

又、菊池風土記に「十八代左京大夫兼朝−武弘(三良、東兵庫頭)、弟 武明(十郎左衛門佐、相模守)

−重棟(兵庫頭)」とあり。

又、合原系図に「肥後守兼朝−武弘(東兵庫頭)、弟 武明(西左衛門尉)」とあり。

又、高瀬系図には「武徳、その子 武弘(右京大夫、永正の頃の人、その兄に西左衛門武者、

その弟に山鹿兵庫頭重長、東武蔵守重棟あり、文亀六年 袈裟原に於いて戦死)」とあり。

35,名和氏族 名和系図に「弾正少弼教長−義興−顕信(東又次郎)」とあり。

36,清原氏族 − − 石島系図に「左馬頭鑑量−右馬頭鎮量(東主水正)」とあり。

37, 他


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