(ハヤシ・リン)

解説

古今の大姓にして諸国(91ヶ所)にこの地名(拝志、拝師、

)甚だ多し。

東寺文書に拝師を波以之、拝志を波也之と註す。 

分派氏族

 

  山城の林− 河内(林姓の発祥地)の林連(大伴氏族)、山城に移り葛野郡に林の里を

       起こせり。

       而して林神社あり、平安朝に至りて、大伴氏族全体の氏神となる。

1,藤原姓 山城の男山八幡宮社家 本頭壮士警固職に林氏四家ありて、藤原姓と

       云う。

2,大和の林氏 十津川郷鎗役由緒書に「中村庄屋 林清右衛門」を載す。

       又、奈良に林小路あり。ある記に「先年、饅頭屋宗仁、当町に居住す。

       宗仁は天正年中の人にて、林氏は、中華・林和清の末裔なり。林浄因、

       建仁寺龍山禅師の宋より帰朝の時、相従って来たり、後に南都に住して、

       饅頭を製造す。これ奈良饅頭の始祖なり。子孫 宗仁、相 相続して、

       当郷に於いて家業とす。ここに於いて林の字を饅頭の中央に點印し、

       その住所を林小路と名付く」と云う。

       宗仁は、連歌を好み、歌学を能くし、源氏物語抄を編録し、林逸抄と

       号す。俗に饅頭屋本と云う、

       又、初めて節用集を撰す。これ本朝 俗字要文集の原始なりと云う。

3,橘姓 摂津国八部郡(矢田部)山田荘の名族なり。源為朝 当荘の領主となりて、

       左女牛八幡宮を勧請せる際、林三郎橘長綱なる者 供奉して、当地に

       来たり 長く神職として仕えしと云う。

4,秦姓 天王寺楽人の一にして、鳳笙及び右舞を以って家業とす。名乗は、広、

       家紋は、下り藤なり。戦国時代、林広政あり、その男 広康(石見守)

       最も名あり。その男 広為(石見守)、その五代の孫 摂津守広済、その男

       広就、その養子 広守など皆名あり。特に広守は、君が代の作曲家と

       して知られる。

5,紀伊の紀姓林氏 名草郡栗栖村の豪族にして、続風土記、当村旧家條に

       「地士、林孫助。その家伝に云う、その祖は、武内宿禰の末流にて、代々

       朝家に仕う。建武の頃、林兵衛三郎実保、足利尊氏に属し文和元年、

       名草郡和田荘 惣追捕使職に補せらる。南朝の建徳元年、林三郎左衛門

       尉保実、故ありて南朝に属し、文中二年、南朝より和田荘 惣追捕使に

       補せらる。下って実保十三代の孫 兵三郎、天正中、秀吉の為に領地を

       没収せられ、海部郡吉原村に住し、その後 当村に来たり住す」と。

       又、紀州家臣にもこの流あり。その系図に「紀姓。武内宿禰四十四世

       保仲 二十世光友の長男 十大夫光定は、西名草郡吉原村 村社神職

       林石見の祖にして、二男 茂助光定の次男は、千光なり。千光の男 重知、

       その子 (儒者)、云々。表紋 右巴、裏紋 五枚笹」と。

6,名草の林氏 上記の他、藤原姓と云うのあり。系図に「林左近大夫、その子

       刑部次郎、代々名草郡山東黒谷村に住す。家紋 丸にかたばみ」と。

       又、名草郡六十谷村角谷氏は、林大和守貞長の後と云う。

       続風土記、名草郡直川荘六十谷村旧家條に「地士 角谷六左衛門。家伝

       に曰く、その祖を林大和守貞長と云う。後花園院、後土御門院の両朝に

       仕う。貞長の曾孫を大学頭元久と云う。多病によりて、致仕して山城の

       伏見に住し、六左衛門と号す。その子を藤代太夫曲永と云う。元和の頃、

       伏見にて、南龍公に謁し、当国に来たり当国に住して農民となり林を

       藤井と改め、後 また藤井を改めて、角谷と云う」と。

       又、伊太祁會神社社家に林氏あり。

7,伊都の林氏 多く藤原姓と称す。続風土記、伊都郡友淵庄條に「南地村旧家

       地士、林佐次兵衛。家伝に云う、当家は、鎮守府将軍藤原時長十四世の

       孫 林源次郎家朝の末裔にして、世々当荘の公文職たり。今に諸役免許

       にて、屋根替えの時、荘中 家毎に茅刈人夫一人づつを出す。天正十五

       年、豊太閤より播州に於いて百七十石を賜う。その他系図、古文書、

       及び旗一流あり」と。

8,源姓 紀伊国那賀郡の名族にして、家紋 瓜の内二ッ巴、替え紋 三階松。

       上那賀切畑村郷士に林教泉あり、石火矢の名手にて、浅野侯に仕えて

       郡代たり。国替えの後、切畑村にて郷士たり。その男 左大夫(正徳四年

       卒)−左大夫−角左衛門烝則など紀州家に仕う。

       又、教泉の弟 左之助は、根来西谷観音院に入り、子孫 林松本坊と云う。

9,那賀の林氏 上記の他、那賀郡島村風森大明神社の神主に林氏あり。続風土

       記に「林氏。今 角十郎と云う。旧 長田中村の荒田と云う所に住みて、

       今 中村に住する林三右衛門と同家なり。この家、囗奴王の謡曲にある

       林家なり。この家は豪富にて、ェ永十九年、隨心院宮・高野より根来に

       御詣の時、この家に逗留し給う。その時の賞に神号を書せし親筆を賜り

       て家に蔵す。又、豊太閤より根来総文中へ賜う所の文書を蔵す。こは

       この時も、郷の豪家にて、根来に一味して兵威を振いしによるなるべし。

       今 林氏両家とも衰えたり」と。

       また、長田中村に三社明祖社あり。「林中村三右衛門と云う者支配す。

       謡曲囗奴王に見えたる林氏の末葉と云う」と。

   *囗奴王の囗は、パソコン及び、大漢和辞典に該当漢字なしの為。

10,熊野の林氏 続風土記、牟婁郡林村内羽位城跡條に「村の北にあり、湯川

       弥太郎光春、六波羅より当郡を与えられし時築き、内梅と名づけて居住す。

その後 被官 林左京進にこれを譲ると云う」と。

11,有田郡の藤原姓林氏− −藤並庄の名族にして、伝え云う

       「林刑部少輔藤原俊久は、元 北面の武士にて所縁これあり。紀伊国

       有田郡勢の里に居住仕り、藤並の庄を開き候、死後に藤並の庄にて、

       大顔大明神と神号仕るべき旨、鎌倉より命ぜられ、永仁三年六月、宮居

       を築き候。その子孫 代々小左衛門と申し候て、同所にて農業仕り罷りあり候」と。

その子 友則−友直にして、子孫 紀州家に仕う。 家紋 梅鉢、替紋 桔梗なりと。

12,嵯峨源氏 これも紀伊国有田郡の名族にして、伝え云う

       「嵯峨天皇第七皇子 北邊大臣信公嫡流 紀伊守昌の孫に、有田郡藤並

       庄司 藤並十郎親と申す人あり。紀伊国有田郡藤並庄 土生の城主にて、

       その六代孫(一説に曾孫) 藤並阿波守源直の九代の孫 五郎左衛門尉貞正

       の代に至りて、天正十三年、秀吉に領地を没収せられ、同郡奥村に蟄居

       仕る。その子 貞広・母( 光清の娘)の氏をまねて林と改む」とあり。

       蓋し、母の氏と云うのは、前項の林氏なり。子孫多く紀州家に仕う、

       「家紋 下り藤丸内に巴の字、替紋 梅鉢、丸に桔梗。家紋 梅鉢、替紋 花菱。

       家紋 角切角に橘、替紋 角切角に三の字」と。

       紀州藩士で源姓と云う林氏は、多くこの流にして「家紋 抱柏、替紋 菱柏。

       家紋 三ッ巴、替紋 五三桐、幕紋 左三ッ巴、(名前は通常 正を使う)

       家紋 丸に桔梗、替紋 丸に二ッ引。家紋 横木瓜、替紋 花菱、(有田郡

       千田村の林氏は、名前に記の字を入れる)。家紋 丸にかたばみ、替紋

       丁子、(通常、弘を入れる)」などあり。

13,阿波の林氏 蜂須賀氏 創業文武有功の士に林氏あり。林助蔵入道道感は、

       麻殖郡川島城に居り、五千五百石を領し、蜂須賀氏を補佐して功多し。

       ェ永中、廃城。

14,崇徳帝裔 和訓栞に「崇徳院、讃岐播遷の時、阿野郡庁の弥大夫高遠の家にて、

その娘を寵幸し給い、綾の局と名づけらる。皇子出生せり、これを林の

弥太郎殿と称せらる」と。弥大夫は、讃岐在庁野大夫とも云う。

       阿野()氏にして、阿野郡林田郷に居れり。

15,讃岐の林氏 当国山田郡に拝師郷あり、この地名を名乗りしもあらん。

       香川郡田村神社 長禄四年壁書に「社家奉行 林参河入道宗宜」あり。

       又、林左近大夫清光、その子 義子 範久などあり。

       又、徳川時代、多度津の儒者(陽明学)に林良齋あり、大塩中齋の門なり。

16,新居氏族 伊予国越智郡拝志郷より起こる。新居系図に

       「為世−季成−為成(拝志三郎大夫)」と。

17,河野氏族 これも伊予国越智郡拝志郷より起こる。河野系図に

       「河野六郎通有の三男 通種(一説に実行)、この地に有りて、林を称す」と云う。

また、「通種−通時(建武年中軍功あるにより、伊予、但馬、越後、所々を賜う)

通任(中先代の乱の時、予州の大将となり、白瀧城に立て篭もる)」と。

18,豊後の林氏 大友宗麟の二男 親家、林新九郎と云う、細川家臣なり。

19,薩摩の林氏 島津藩に存し、河辺郡硫黄島熊野社 ェ永元年棟札に

       「地頭 林休兵衛時主 云々」とあり。

20,菊池氏族 肥後国の名族にして、菊地系図に

       「次郎隆定−能隆−隆泰−隆香( 安芸守、菊地武重・武光、両代の執権)」と。

又、「蛇塚三郎定氏−隆香(安芸守、林と称す)−隆里(安芸守、応永三年十一月二十二日、

筑後国溝口に於いて戦死)」とあり。

21,筑後の林氏 − − 上記の後にして、筑後菊池系図に「宗氏(蛇塚三郎)−隆香(安芸守)−隆里(安芸守)

−隆幸(長門介)−兼幸(長門介)−邦幸−資幸」と。

22,肥前の林氏 − − 幸天社(現、深堀神社)の社人に林 主水あり、その子 孫左衛門の裔、大村藩に仕う。

又、長崎の書家に林 道栄あり。

23,豊前の林氏 − − 当国下毛郡の名族にして、元亀 天正の頃、林越後守あり。

又、宇佐郡龍王鳥越の社家に林氏あり、当地方の名族にして、南北朝の頃、林三郎右衛門次位あり。

又、小倉篠崎村の医師に 林洞海彊(健卿)あり。

24,石見の林氏 − − 第17項の河野氏の族と云う。当国那賀郡松山村 上津井林之城主に林左衛門尉あり。

林系図に「土居実行(四郎と称す。通治と同母弟。元弘中、車駕隠岐に幸す。実行、

憂憤措かず、航して隠岐に至り、密かに富士名判官と謀る所あり。帝、伯耆に幸するや、

たまたま つむじ風にあい、邇摩郡大浦に漂着、尋いで病没す。土豪 鈴木長重、子を以って

継がしむ。後、土居社に祭る) =通重(実は鈴木長重の男、実行の志を継ぎ 兵を挙げて

北條氏を新庄口に討ち戦死す)−通行−通忠−通元−通茂−通兼(伊予守)−通信(大浦に帰住)

−通持=林正定(養子にして、実は毛利備中守家臣 林氏より入る。これより林を称す)−通行

−通村(元和の役、東軍の銀山奉行竹村丹後守に属して功あり。家康公より金扇、及び領地を賜る)

−通祜=通正−通重−通高−重良−貴熊−通則=政満=利正−徳則(功あり、大正十三年、贈従五位)

−通久−通利−愛吉」と。

25,防長の林氏 第17項と同族なり。系図に

       「河野通有−通直−通朝−通堯−通義−通久−通兼−通村(佐渡守)−通忠−通起(淡路守、

周防国束荷村に住し、毛利氏に仕う)−通元(市郎右衛門、東善坊)、弟 通代(五右衛門、

土井の林氏)、弟 通重(孫右衛門)」と。通代の子孫に明治の元老 伊藤博文あり。博文、

林家から伊藤家に養子に入る。

又、幕末、林友信の男 友幸、勤皇の志深く明治以降も功多く、子爵を授けられる。

その男 博太郎なり。

26,安芸の林氏 − − 安西軍策に林権兵衛(武田方)、林甚四郎、林又兵衛、林木工允(輝元方)など多くあり。

又、芸藩通志 豊田郡故家條に「南方村 林氏。先祖 河野の末裔 林平右衛門を祖とす。

平右衛門は初め日名内城主の士なり。系譜、及び慶長七年の鉄砲教授の書あり」と。

又、賀茂郡風早邑陣鼻山城主 林氏は、通志に「先祖 林甲斐、天文年間 小早川氏に属す。

村の東西二城は、その守る所なりと。家に小早川氏三世の感状、及び長槍、偃月刀を蔵す」と。

27,備後の林氏 − − 当国世羅郡の名族にして、芸藩通志に「先祖 林富樫助家国より出で、凡そ

十余世を経、世々 武功ありしこと、家譜に詳なり。永禄の頃、修理助光家、この国に来りて、

毛利家に仕う。光家、初め北條氏康に従いし時も 戦功有りと云う。永禄九年、伊予の役に

福原貞俊の手にて、高名あり。光家の子 重光、天正十五年、松山篭城の日、手勢十八騎にて

抜け駆けせしが、十六騎を失い、逃げ帰り、且つ、その夜、小早川家人 小泉某と争闘しければ、

輝元の勘気をうけて、従父 赤川十郎左衛門の所領 小国村に蟄居す。後、農民となり里正となる、

今の文之助まで八世」とあり。

又、明人の裔にあり。芸藩通志、備後国奴可郡故家條に

「西城町 林(リン)氏、家譜に曰く、明人 林頓慶(慶は一説に京と書す、又、東渓とも書けり。

子孫 世々 頓慶と称す)・漂流して石見国に来り、遂に留まって 出雲国松江に居す。これを

宗祖とす。宮 景盛、郡内に城居するに及んで、頓慶、医に精し、また武事を講ず。宮氏、

出雲に移りてより、禄を離るといえども、尚、この地に住し、子孫 世々 医を業とす。

今の頓圭(慶の字を避けるなり)まで九世」とあり。

28,小野朝臣姓 − − 備中国の名族にして、当国の目代だった 小野入道浄智の一族なり。

後世 玉島の人 林貫通の男 富太郎保定(抑斎、定卿)は、学名あり。

29,美作の林氏 後鳥羽天皇 皇子の侍臣に林兵庫あり。皇子薨去後、

       一色妙法寺に祠を建てて祭ると伝えられる。

       又、林勝丸あり、天文以降、久米郡宮部村に居を構え、宮部上下、中北

       上下を領せり。その子 弥太夫綱年、森侯時代、郷士として百石以上の

       士格、百五十六旧家中の総代、帯刀、騎馬 御免にて年々登城すとぞ。

30,因幡の林氏 − − 当国智頭郡の岩神城主に林玄朴あり。

31,酒井氏族 − − 丹波国多紀郡の名族にして、酒井党の一つなり。林彦九郎道範あり。

その嫡「林七郎政友−豊前守益貞−新助明弘(永禄年中死)−某−酒井藤右衛門氏茂(元和中より

郷代官、慶安四年に至る)−某(喜左衛門、慶安五年より元禄四年まで大庄屋)」と、その系図にあり。

32,丹波の林氏 − − 当国天田郡及び何鹿郡に林郷あり、この地より起りしもあらん。

丹波志、氷上郡條に「林伊予守、子孫 和田庄応地村。丹後より来る。塚五輪あり、子孫

本家 林十左衛門、分家共に十八家、林株と云う」とあり。

33,嵯峨源氏 越前国に拝師郷あり。瓜生の族なり。

       太平記巻十八に「瓜生判官の弟 林次郎入道源琳、同 舎弟 兵衛助重、云々」とあり。

34,利仁流藤原姓 − − 富樫氏と共に加賀の名族にして、加賀介藤原忠頼の裔孫と云う。加賀国の

石川郡の拝志郷より起る。尊卑分脈に

「利仁−(斎藤)叙用−加賀介吉信−加賀介忠頼−吉宗(始めて加賀国に住む)−宗助−貞宗(林)

−貞光−光家−光明−光茂−家綱−家朝(承久合戦以後、関東に於いて敵となり討たる)」とあり。

35,加賀藩の林氏 − −長享中、当国石川郡の林庄に林某あり、一向宗徒の役に死、その裔 「次郎良貞

−與右衛門定勝−長兵衛常頼−長兵衛富則−慶助翼(儒者として名あり、加賀藩の重臣

今枝氏に仕う。後、藩の助講となる)−周輔瑜(孚尹、実は渋谷氏、渋谷伊賀の裔 松堂亮の二男)」なりと。

加賀藩給帳に「七百石(紋、丸の内に三巴下一の字)林源太郎、三百五十石(紋、三巴下一の字

)林右平太、三百石(紋、丸の内に林のテン字)林十太夫、三百石(紋、丸の内に四ッ目)林武左衛門、

二百五十石(紋、七宝の内に花菱)林藤左衛門、百五十石(紋、六角の内に九曜)林久太夫、

百二十石(丸の内に並瓶子)林昌五郎、百石(紋、丸の内に柏)林三郎左衛門、百石(紋、

丸の内に柏)林志摩助」とあり。

36,幕臣 − − 九流あり。

藤原流−北條家臣 林備前守光政、その男 宗兵衛英綱、家紋、十二葉陰の菊、蓑亀、丸に一文字、九曜。

清和源氏流−家紋、丸に三頭左巴下に一文字。

清和源氏満快流−重好を祖とし、家紋、右三巴の上一文字、開扇、三本銀杏。

平氏流−久勝を祖とし、家紋、丸に抱茗荷、丸に沢瀉、三巴。

越智氏族−正長を祖とし、家紋、角切角に三文字、丸に扇打違、左三巴、九枚笹。

藤原流−勝利を祖とし、家紋、隅切角に三文字、左三巴、九枚笹。

藤原流−正勝を祖とし、家紋、丸に抱柊、松葉菱、杏葉牡丹。

源姓?−公局を祖とし、家紋、丸に二引、五三桐。

不明−勝重を祖とし、家紋、丸に井筒、下藤に上文字。

37,儒道林家 加賀藩斎藤族の林氏の裔なるべし、家譜に「先祖加賀の人にして、後 紀伊に移る」と

云うを以って也。吉勝理斎に至り 大阪 次に京都に移る。系図は

  又右衛門正勝┬左近衛門吉勝
        └弥次右衛門信時−又三郎信勝(羅山)−春勝−信篤−信充−信言−信愛−信徴−信敬=述斎−培斎−寧卿=弼中−学斎

  *家紋 丸に抱柊、松葉菱、 三千石 大学頭。

38,越中の林氏 − − 当国礪波郡に林村あり、又、林神社 鎮座す。

それらをゆかりにして起りし林氏もあらん。

近世、富山藩の蘭学者 林太仲(忠敏)の養子に忠正(長崎言定の男)あり、仏のパリに林商店を起す。

39,越後の林氏 − − 当国 古志郡に林村あり。この地名を名乗りしもあらん。

斎京家譜に「清和源氏、義光の末流、下山左馬介義氏の末孫、林左馬亮村光の六代の孫、

林左馬亮林氏の長男、林與六郎源村隆事、開祖、斎京三郎右衛門」とあり。家紋、花菱、後に桔梗。

又、林文左衛門あり、家紋、木瓜。

又、上杉謙信の家臣に林丹波あり、越中の泊城を守る。

40,磐城・岩代の林氏 − − 両国にも林の地名あり。この氏はこれらの地名を負いしにて、数流あり。

新編会津風土記、会津郡堤沢村條に「舘山、林右馬頭 住せしと云い伝う」とあり。

又、岩城出身の名医に林一烏(明和五年卒)あり。

41,陸前の林氏 − − 有名な林子平は、第十七項 越智刑部少輔通高の裔にて、林総兵衛なる者、

豊臣秀頼に仕え、後、堀越後守の家臣になり、三千石を賜う。その男 新左衛門、その男

源五兵衛良通、幕府に仕え六百二十石を賜う。その裔 子平。兄及び姉が 仙台の伊達公に仕えた為、

子平も移り、海防の重要性を説き「海国兵談」などを著わす。ェ政五年没。

42,桓武平氏大掾氏族 常陸国の名族にして、鹿島郡林村より起こる。

       常陸大掾系図に「鹿島三郎成幹の子 頼幹(林六郎左衛門)−沼尾平太重幹、弟 中村平次兵衛重頼、

良政(林左衛門六郎、一に貞政)」とあり。代々 林村に住して、青塚、奈良毛、角折、志崎

などの地を領したが、天正七年四月二十一日、林 時国、白鳥の礼村に於いて、佐竹家臣 荒原五郎

       左衛門に殺されて絶えた。この支族はあり。

43,秀郷流藤原姓 − − 尊卑分脈に「秀郷六世の孫 淵名大夫兼行−行房(上野国住人、林六郎)−成綱−成光

−重光−広光−広綱−秀綱」とあり。

又、河野系図に「林六郎行房は、秀郷七代の孫なり、上野に住す。この孫、三河の林氏、尾張の

林甲兵衛等、この庶流なり。藤原の林、家紋、三巴」とあり。

44,上野の林氏 − − 当国利根郡、吾妻郡等に林庄、林村あり、この地名を名乗りしもあらん。

新田義貞の末男 新田六郎貞氏の家臣に林氏あり。

45,清和源氏頼清流 − − 村上氏の族にして、尊卑分脈に

「上野三郎康宗−二郎有親−左衛門尉時基−義信(号 林五郎)」とあり。

46,武蔵の林氏 大里郡熊谷の名族 林氏は、林勘解由源忠保の孫 林図書政良

       より出づ。林過去帳に「林勘解由源忠保の孫 林図書政良は、弘治三年

       出生、正保二年十月二十二日没、行年 八十九歳、二代以下は與四右衛門、

       由右衛門、勘兵衛など称す。政良の弟 林妥女正員は、永禄五年生まれ、

       慶長九年八月二十三日没。行年 四十三歳、別家の祖なり。兄弟の墓は、

       熊谷村熊谷寺にあり。家伝には天正年間、美濃国より熊谷に来住せりと云う。

家紋 丸に四ッ目、源姓、中世 盛んに商業を営み、和泉屋と称せり。

       明治、林有章氏に至る、政良より十一代也」とあり。

       又賀美郡に大御堂陣屋(大御堂村)あり、新編風土記に「横町村の接地にあり。

林虎之祐と云う人住せし所と云う。郡内長浜町 長安寺は、この人の開基にて、

その寺の開山は慶長中に示寂せしと伝うれば、虎之祐は、その頃の人にして、

当時この村の頭なりしも知るべからず、されど、卒年 及び事蹟など総て詳ならず」とあり。

47,桓武平氏三浦氏族 − − 相模国三浦郡林郷より起る。三浦系図に

「三浦介義澄−駿河守義村−小太郎左衛門尉朝村−氏村(一本に俊村、林式部大夫と号す、

泰村と同じく自害)−忠氏(三郎、父と同じく自害)−景氏」とあり。

48,清和源氏伊那氏族 − − 信濃発祥なり。尊卑分脈に

「満快五世の孫 伊那太郎為扶−伊那中太郎公家−快次(林二郎、又、野辺四郎)、

弟 快実「公家の弟 公扶(林源太)−快次(林小太郎)−公季(泉太郎)」とあり。

又、伊那系図には「公家−公扶」とあり、伊奈系図には

「公家(忠太郎)−公扶(林源次)−扶次(小太郎)−盛扶(室賀次郎)」とあり。

又、江戸幕臣にありて、ェ政系譜に「満快流、孫二郎満衡の末孫とす。

重好−重熙−完熙、家紋、右三巴の上一文字、開扇、三本銀杏」とあり。

49,藤原南家工藤氏族 − − これも信濃発祥にして、尊卑分脈に

「狩野四郎大夫家次−工藤四郎家光−家俊(号 林二郎、住 信濃国)」とあり。

又、中興系図に「林。藤原姓、本国信濃、工藤四郎家光 これを称す」とあり。

50,清和源氏小笠原氏族 信濃発祥にして林郷に住す。かつて「松平親氏・

       上野新田より出でこの家に宿す」と伝う。家譜に

       「小笠原信濃守清宗の二男 中務少輔光政、信濃林村に潜居す、親氏君

       の仰せにより、家名を林と改め三河に随従す」と。

       家紋、 三頭左巴下に一文字、三階菱、五七の桐、

       上総国望陀郡 請西藩 一万石 明治 男爵

*親氏君は、14世紀後半の人、小笠原光政は、15世紀後半の人で、この伝え おかしい。

51,諏訪の林氏 − − 諏訪志料に「林氏(旧 橋原の内)。源義光五代の孫 林伊豆守時家なる者、

幼名 弥三郎、小笠原家に仕え 老職となる。承久三年、後鳥羽上皇に応ぜしを以って

北條泰時の為に罪せられ、信濃に隠る。その十三代 武光、安房守と称す。嘉吉元年六月、

細川管領持之に従いて功あり。その七代 種行・長十郎、武田信玄に仕えしが、

主家滅亡後は 浪人し、天正十三年、橋原村に居住し農を営むと云う。云々」とあり。

又、伝え云う「下社神楽役 宮島祝は、林氏、後に町氏と云う。又、若林、中林、

上林等の一族を林党と称せりとぞ。又、大和十人衆に林一学、林一之助あり、橋原村に住す。

橋原の林氏は 御柱祭 第一の御柱の木元たりと。その引立は、同姓一統にて擔當するを古式とす、

と云う」と。

52,信濃の林氏 − − 伝え云う「当国下伊那郡に林氏あり、その館跡は、会地村中関にして、天文の始め、

三州西尾の城主 林紀伊守信方、故ありて松尾の小笠原に拠り、知行三百貫文を領し、

その子 政信、その子 信房に至り、民籍に降る(南信史料)。又、上伊那郡伊那町山寺に林氏の

居跡あり。天文の始め、林式部が居館を構えし地にして、郷士たり。弘治年間、武田氏

討ち入りの時討死し、治部は 民籍に降る(郡記)。又、後世、当国の国学者に林監物良本あり、

荻翁、亀岡と号す、景樹の門也」と。

53,甲斐の林氏 − − 当国巨摩郡に林小兵衛あり、武田家に仕う。その子 彦六。その他、林平六等、国志にあり。

54,林朝臣姓 − − 熱田神宮中摧H宜(祠官、神家)の一にして、熱田宮旧記に

「林朝臣。孝元天皇の皇子 大忍信命の後、武内宿禰、紀氏分岐なり。当氏を以って譜代相続」とあり。

又、尾張志に「林朝臣。氏人十家なり、孝元天皇の皇子 忍信命の裔なりと府志に云えり」とあり。

林、林蔭、西小路、橋小路等の諸氏は、この族と云う。

55,遠江の林氏 当国引佐郡の名族にして、巻鶴を家紋とす。鶴見氏と関係ありと云う。

56,三河の林氏 − − 当国設楽郡津具村に林の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。

二葉松に「賀茂郡手振城(手振村)の城主 林五郎左衛門義豊。又、山下源助、林孫八の父 道清は、

始め長沢組衆、後、神君(家康)へ仕官」とあり。

又、伝え云う「永享年中、稲石五郎蔵光朝、紀州の本宮より来り、御油村に居りて林氏と云う。

子孫 林孫八郎光衡に至る」と。

又、西尾の城主に林紀伊守信芳あると云う。

57,良峰氏族 − − 尾張の林氏にして、良峰氏系図に

「立木田大夫高義−高光−右衛門大夫高重(橘高重と称す。後堀河院御宇)−五郎左衛門尉高綱(号 林、

歌人、後三條院の勅旨)−左衛門尉忠高、弟 実相院(寺、少輔阿闍梨、静誉僧正の御門弟)」とあり。

58,尾張の林氏 − − 当国中島郡に林郷ありて、織田氏分限長に「尾州 林郷、田 百八十貫」とあり、

この地名を名乗りしもあらん。

信長記に「かろと島の寄手には、織田上野介殿、林佐渡守」とあり。この林氏は、

佐渡守通勝(秀貞)と云い、もと美濃の人、織田信秀、信長に仕え、弘治元年、名古屋城の城主となる。

その子に新三郎光時(通政)、佐介光之あり。

又、愛知郡菱野城(菱野村羽根屋敷)の城主は、張州府志に「林次郎左衛門」とあり。

又、海部郡の豪族 林與三兵衛の宅跡は、戸田村にあり と云う。

59,美濃河野族 − − 第17項と同族なれど流を異にする。河野氏系図に

「通村。文亀元年、美濃国の安八郡の林村に居す。それより始めて林と号す。この所、

上林、中林、下林、この三ヶ村を合わせて林と云う」とあり。

又、「予州の稲葉、濃州の林とに紛れ、この頃、稲葉家 盛なるによりて、藤原の稲葉・林も、

越智氏に紛れる者あるによりて、これを験す。越智の林は、家紋、割茗荷丸、二引なり。

これを以って知るべきなり。藤原の稲葉の通名は、四郎、諱には光、藤原の林の通名は、

五郎か六郎、諱は 行か、郷」とあり。

ェ永系図に「元は南部と云い、正利に至り林に改む」と。家譜には「河野四郎通信の末裔、

駿河守通村・安八郡の林村に住せしより称号とす」とあり。

又、河野系図に「稲葉七郎通弘−右京亮通則−七郎左衛門通兼−新五郎通村(通次、佐渡守、

林の祖)」とあり。

又、大野郡清水村の清水城は、「天正十二年、一鉄の女婿 林通兼 住す」と云う。

又、「十八條村の住人 林駿河守正通入道道慶」とあり。

又、新撰志に「林駿河守正通入道道慶は、道三の旗大将にして、義龍の旗大将 林主水とは

伯父、甥なり」と。

又、新撰志、十七條古城跡條に「享禄年中に至り、林佐渡守正長(林左近の嫡子なり) 改め築きて

居住す。その嫡子 林玄蕃、永禄五年、軽海の夜軍に戦死す。正長の二男 林宗兵衛正三まで

ここにありて、正三、天正六年四月死し、法号をェ月宗本大禅定門と云う由、名細記に見えたり。

正三の子 林市助、稲葉兵庫頭重通の養子となり、稲葉佐渡守正成と称し、当将軍家に仕え奉り、

二万石を領す。その妻 大猷院殿(家光)の御乳母となり、春日局と号す。その子 稲葉丹後守正勝、

御老中となり、相模の小田原 八万五千石を領す。二男(正勝の弟也)、名古屋に仕え奉り、

千石を賜り、当村を領す。正定の孫 六郎右衛門病死して 嗣子なく、家 断絶す」とあり。

又、幕臣に林氏ありて ェ政系譜に「通村の三代 但馬勝利(通利、佐渡) 外家の号 南部を称し、

信長に仕う。その男 丹波正利(新蔵、藤左衛門、林氏に復す。小早川秀秋に仕え 後、家康に

仕えて美濃国可児中島にて二千石を領す。その子 丹波勝正(藤左衛門)−権左衛門勝明−藤左衛門正栄。

家紋、隅切角に三文字、左三巴、九枚笹」とあり。

60,清和源氏土岐氏族 − − 根尾右京亮の二男に林出羽あり。新撰志 神所村古城跡條に

「太平記に、脇屋刑部卿義助、九月、美濃の根尾の城に立て籠もりしかども、土岐弾正少弼頼遠、

刑部大輔頼康に責落され、熱田の大宮司の城 尾張国波津が崎へ落ち、伊勢 伊賀を経て、

吉野殿へ参られけると見ゆ。この根尾城は これ也。また根尾右京亮、神所の寺谷に住し、

その嫡子 島右京も当村に住みし後、大井に移り、又、飛騨の高山に落ち行く。二男 林出羽(

島右京の弟)も当村の中屋敷に住し、後、徳山に移る」とあり。

61,森氏族− −金山記に「美濃国土岐郡高山の城主 平井頼母は、森家の猛威を怖れ降参して、

城を明け渡し、自身は下屋敷に住みければ、武蔵守使いを遣わし、城を受け取りて、

伯父の林長兵衛尉を置く」とあり。

又、「大森の主将 奥村又八、森家に敵対しければ、武蔵守憤り、士 大将 林長兵衛、

可児庄六、同 藤助など、三百余騎を遣わし、大森を攻撃しければ、又八防ぎ得ず、

打ち負け、雑兵にまぎれて落失けり」とあり。

62,その他 美濃の林氏 − − 新撰志 安八郡條に

「林半助。青木村より出で、始め 宮川家の家長たりしが、後、石田三成の使番となり、数々 戦功あり」と。

又、平野庄 山王権現の社人に林氏あり。

又、儒者に林伯英(世興)あり、大進と号す。

63,医師 林氏 − − 幕府芸者の書付に「二百俵、医師、林牛斎。今以って同高」とあり。

ェ政系譜に「牛斎−玄益−玄喜−玄宗」とあり。

64,藤原南家工藤氏族A − − 伊勢国奄芸郡の林村より起る。

三国地志に「『林堡、林民部少輔居守』とあるもの これにて、明応中、長野工藤氏の一族 祐行、

ここにおりて林を家号とす。その子に民部行藤、孫次兵衛英春等あり」と。

又、名勝志に「林城址、林村に二ヶ所あり。一は 字北浦にあり、東、南、北の三方 険崖に臨み、

西は 平坦にして耕地たり、松樹疏生す。正応中(一説に明応) 長野氏の族 。林祐行、城を築きて居る。

数世の孫 重越に至り、関氏の一党と和せず、争い止む時なし。天文五年十月、関盛信、自ら兵を率い、

鹿伏兎定長を先鋒とし、来り攻め これを抜く。重越、長野に走り、城 遂に廃す。一は 字城屋敷、

墓石、宮谷に跨る。周囲は嶮にして、概ね林藪たり。平坦の地 今 宅地となれり」とあり。

65,桓武平氏関氏族 − これも 伊勢国奄芸郡林村より起こりしにて、本村旧記に

       「天文七年、関氏の族 鹿伏兎定長の二子 定保、城を築き、ここに居り、林氏を称す。

保春の時、天正十一年秀吉来たり攻めしが、城堅くして抜けず。されど後 出でて降りる。

秀吉 封を但馬の一村に移す」とあり。

       又、加太系図に「近江守定長(信長に仕う)−定保(林家の祖)」とあり。

66,伊勢斎藤族 − − 第34項の支族にして、林豊前守光家六代の孫 林次郎光友より十代

「林長左衛門光久(始め庄次)−文左衛門光政(国太郎)−長五郎友政。家紋、丸の内に三柏、替紋、藤丸」と。

67,越前家臣 − − 秀康卿給帳に「九千八百四十石(内、六千八百四十石 与力)御普請與頭 林長門、

千五百石 林図書、千石 林久助、六百石 林内記、二百石 林六兵衛」等とあり。

68,囲碁林家 − − 本因坊家・安井家・井上家と並ぶ、江戸時代の囲碁の家元四家の一つ、その祖 門入斎は、

もと森氏。幕命により林となると云う。明治に入り、十三世の 秀榮が本因坊家に戻って

その名跡を継いだ為、林家は絶家となる。

69,源姓 − − 幕臣にしてェ政系譜に「公局(恕軒、玄伯)−一之(玄正、玄伯)−義方(恕軒)−茂安」とあり。

又、幕府芸者書付に「二百俵 医師 林玄伯、今 以って同高、小普請 林玄昌」とあり。

70,筑前の林氏 − − 黒田二十四騎の一人に林直利あり、賤ヶ岳の戦い・関ヶ原合戦・大阪陣などに勲功あり。

又、文禄の役の際は、黒田長政に従い朝鮮に渡り、猛虎を退治せしと云う。又、築城技術にも優れ、

名古屋城・福岡城などの造営にあたる。

71,台湾の林氏 台湾における名族なり。その祖を林平侯と云い、南支那から来住す。開墾事業に

貢献するところ多し。その子 国棟、国華、国華の子 維源は、清朝から墾務大臣に封じられ、

台湾開拓の功績多し。

       又、国棟の曾孫 熊徴は、公益に貢献するところ頗る多く、永年の社会事業に貢献するにより

勲四等に叙せられる。

72,他


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