八   田(ハッタ・ハタ)

解説

和名抄、尾張国海部郡に八田郷ありて、尾張志に「愛知郡八田村

なるべし」とあり。越中国砺波郡、丹波国何鹿郡、但馬国二方郡、周防国吉敷郡に八田郷あり、又、和泉国和泉郡に八田荘あり。

 

国土基本地図に27ヶ所あり。

尚、高知県吾川郡伊野町のは「ハタ」と読み、熊本県玉名郡

南関町のは「ハツタ」と読み、同県球磨郡相良村のは「ヤツダ」と

読む。ヤダと読むのは八田(ヤダ)参照。

 

1、宇都宮氏族 常陸国新治郡( 真壁郡)八田村より起る。尊卑分脈に

     「道兼曾孫 宇都宮座主 宗圓の子 宗綱 八田権主。始め叔父兼中の相続子となり、後に

     息子 宗房を生み、即ち、兼仲の継嗣となし、実父 宇都宮流に帰す。又、外記中原宗家の

     子となり、後に本姓に帰る。或いは云う、本姓 中原氏なり。中原宗忠、宗家、宗綱は

     宗家の子なり」と。その後は「宗綱−知家(八田四郎)−知重(八田五郎)−泰知−時知」とぞ。

     中興系図に「八田。藤原姓、本国 下野、道兼公の苗裔 宇都宮下野守家綱の孫 太郎左衛門

     知重これを称す」と。

2、会津の八田氏 新編風土記 河沼郡八田野村條に

     「この村、昔 蒲生源左衛門の知行所なりしとぞ。その時の文書を肝煎 八田吉郎兵衛の家に

     蔵す」とあり。

3、甲斐の八田氏− −当国東八代郡石和町八田より起る。末木淡路守家茂の長男 末木政清の後なりと

     云う。又、八田小次郎政経後胤と云う。

     誠忠旧家録に「八田小次郎政経後胤、子孫 武田家に仕え、天正以後、処士として村事を

     掌る。微細なる系図、御感状を伝う。上八田村 八田慶兵衛光明」とあり。

4、美濃の八田氏 1項の族なり。宍戸系図に「知家−知尚(承久の役 官軍に属し勤王す、

     美濃国に住す。子孫あり)」とあり。

5、三河の八田氏 当国碧海郡名族にして、第1項の後なり。

     二葉松に「法性寺村、八田森右衛門」の名あり。又、三河諸侍出所に「合歓の木村

     八田喜左衛門、赤渋村 八田角兵衛」とあり。後に儒者 八田大二郎靖民あり、華陽と号す。

6、近江の八田氏 当国の八田家系図に

     「道兼−兼隆−兼房−宗圓(宇都宮別当)−宗綱(八田権主)−知家(八田四郎、下野国新治郡、

     今の結城郡八田村より起こる)−知重(綱家、小田八田の祖)−家任(従五位下、常陸式部大輔)

     −家宗−宗知、弟 家晴−家倩−家教−家賀−家序−家任−家仍−仍序−八田主膳之介家次(

     始めて丁野村に来り、赤谷に住す)−家宗−家位−家道−家久−家集−家吉(丁野の百姓と

     なる、浅井久政公時代、弘治年中に知行指上、二君に仕えじと誓詞を上る)−家定

     −右衛門太郎−元家、弟 家治−家広(柴田林介と改む、時に元和六年)−家元−家香、弟

     治郎兵衛(丁野住)−治郎兵衛−治郎兵衛−治郎兵衛−治助−利介−治助−次良平−治助」と

     あり。家紋、丸に蔦、昔は三つ巴なりと。

7、桓武平氏 尊卑分脈に「忠盛−忠度(薩摩守)−忠行(八田蔵人)」とあり。

     「ハッタ」か「ヤダ」か詳ならず。

8、豊前の八田氏 当国築上郡八田村より起り、野仲城に拠る。築上郡志に

     「野仲城跡、西八田村にあり。東西百二十間、南北六十間。八田氏代々の居城にして、

     応永の頃は、八田太郎義朝、同治部少輔武朝居る。云々」とあり。

9、他


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