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秦(ハタ) |
解説 |
天下の大姓にして、その氏人の多き事、殆ど他に比なく、 その分支の氏族もまた極めて多し。 |
分派氏族 |
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1,京都の秦公 − − 元慶七年十二月紀に
「左京人 明法博士 秦公直宗あり。惟宗朝臣姓を賜う」と。
2,河内の秦公 − − 姓氏録、河内諸蕃に「秦公。秦の始皇帝孫 孝徳王の後なり」と。
3,美濃の秦氏 − − 正倉院 天平四年三月二十五日文書に
「秦公豊足(美濃国当嗜郡(今の多岐郡)垂穂郷三宅里戸頭 秦公麿の戸口)」とあり。
又、承和元年九月記に「僧正伝灯大法師位護命卒す。法師、俗姓は、秦氏、美濃国各務郡の人」とあり。
又、類聚符宣抄 巻七に「各務郡大領 秦良実」とあり。
又、江戸時代、当国の儒者に秦峨眉(原丕)あり、刈谷藩に仕う。その男 鼎・滄浪と号す、また名あり。
4,播磨の秦公 − − 播磨風土記、揖保郡條に「少宅里は、本名漢部里、後、少宅と改むるは、川原若狭祖父、
少宅秦公の娘を娶り、即ちその家を少宅と号す。後に若狭の孫 智麻呂、任ぜられて里長となる」と。
5,讃岐の秦公 − − 秦部の裔なり。承和二年十一月紀に
「讃岐国人 従六位上 秦部福依、弟
福益などに秦公の姓を賜う」と。
6,賀茂縣主流の秦公− − 稲荷社にては、伊呂具を賀茂建角身命 二十四世 賀茂下社
禰宜 賀茂縣主 久治良の季子とし、一名、麟依とも記し、その子「山守
−鮒主−伊比積−峰守−蔭清−植積−伊比盛−中家」と。
7,稲荷の秦氏 − − 伏見稲荷の社家にして、賀茂縣主姓と称す。「中家に至り、
秦公を改めて、姓を秦忌寸と賜う」と。後、秦宿禰と賜う。
8,松尾の秦氏 − − 松尾社の社家にして、秦宿禰の裔なり。東神主、南正禰宜、
東権神主、東権禰宜、東権祝の諸家、皆 秦姓と称す。
9,山城の秦氏 − − 幕末 明治の名鋳工に秦
蔵六(米蔵)あり、愛宕郡岩屋端の人なり。
御璽、国璽を謹造す。これより前、征夷大将軍の金印を鋳造す。
10,大江姓− − 丹波の秦氏にして、家伝に
「姓は大江氏なり。後、田中、また内藤と称す」と。ェ政系譜に
「善秀−宗巴=徳隣、家紋 五七桐、鳳凰の丸」と。
11,大和の秦氏 − − 当国葛城(葛上郡)郡は、秦族が最初に賜りし地なり。
よって当国には 秦公、秦造、秦連、秦忌寸、秦宿禰など多し。
名匠略伝に「贈 僧正伝灯大法師位勒操。姓は秦、大和国高市郡の人なり、云々。
天長四年五月七日、奄然として化す」とあり。
地名辞書、城下郡村屋條に「延喜式に楽戸郷村屋あり、村屋の一称ならん。雅楽寮式に
『凡そ四月八日、七月十五日の斎會分、楽人を東西二寺、並びに寮に充て役す。官人
寺に詣りて検校し、會の前三日、官人、史生、各々一人、楽戸郷に就きて簡充す』と載せ、
原注『大和国城下郡杜屋村にあり』と見ゆ。大和史を按ずるに岡寺 現在の古鐘の銘に
『城上郡森屋郷新楽寺。建保三年四月鋳』とありとぞ。新楽寺は、今 多村にありて、
秦楽寺と云う。この寺は 蓋し、楽戸秦連の氏寺にして、郡郷の所管、諸書相異するは、
境域の移動によれるか」とあり。
12,河内の秦氏 − − 当国にも 秦公、秦造、秦連、秦忌寸、秦宿禰など多し。
又、幡多神社あり、又、当国茨田郡には 幡多郷あり、この氏に関係あらん。
正倉院 天平宝治二年文書に「秦 虫足(河内国丹比郡)」とあり。
13,和泉の秦氏 − −当国にも 秦公、秦造、秦連、秦忌寸、秦勝など多し。
又、当国日根郡に波太神社、又、和泉郡に波多神社、波太神社あり、この氏に関係あらん。
和泉諸蕃に「秦勝。同祖(秦忌寸、太秦公宿禰と同祖、融通王の後なり)」とあり。
14,摂津の秦氏 − − 和名抄、当国豊島郡に秦上郷、秦下郷を収む、秦氏の居住せし地なり。
又、有馬郡に幡田郷(上下あり) 、この氏に関係あらん。
東大寺奴婢帳 天平勝宝三年三月三日の奴婢見来帳に「摂津国川辺郡坂合郷戸主
秦美丘儀利、戸主 秦乙麻呂」とあり。
又、神護景雲三年紀に「西成郡人 秦神島(秦忌寸姓を賜う)」とあり。
又、法隆寺夢殿の五間の障子に太子の絵図を描写す。旧画は、延久三年に摂津国大波郷の人・
秦致真の作なりとぞ。天明中、吉村光貞、模写すと云う。
15,伊勢の秦氏 − − 和名抄、当国一志郡に八太郷を載せ、神名式、この郡に波多神社を収む。秦氏の住みし地ならん。
正倉院 貞観三年六月紀に「伊勢明郡の人 秦美豆岐」と、
又、元慶七年九月紀に「伊勢国飯野郡神戸百姓 秦貞成」とあり。
又、後世、三重郡羽木村加富神社 天文五年八月の棟札に「神主 秦五位綱安」とあり。
又、貞享の頃、国学者に秦信慶あり。
16,三河の秦氏 − − 和名抄 当国幡豆郡八田郷を収め、渥美郡に幡太郷を載せたり。
この氏と関係あらん。江戸時代 当国赤坂の儒者に秦貞八 惟貞あり。
17,遠江の秦氏 − − 和名抄、麁玉郡に覇多郷あり、又、長下郡に幡多郷あり、秦氏の住みし地ならん。
承和十四年八月紀に「遠江国蓁原郡の人 秦成女」とあり。
18,常陸の秦氏 − − 和名抄、当国那珂郡に幡田郷あり、秦氏の住みし地ならん。
当国信太郡木原村の楯縫社に天文二十五年、波多野刑部少輔秦治宗が寄進せし経巻あり。
治宗は、大谷城主なり。
又、龍ヶ崎の俳人に秦澄江あり。
19,近江の秦氏 − − 当国蒲生郡に上羽田村あり、秦氏の住みし地ならん。
類聚国史巻十七に「延暦二十一年云々、近江国人 秦継成」とあり。
20,上野の秦氏 − − 和名抄、当国多胡郡 及び邑楽郡に八田郷あり、秦氏の住みし地ならん。
21,越前の秦氏 − − 秦氏の本拠地 山城国と越前国とは 北陸道を使って行き来できた為、当国に秦氏多し。
山城国計帳(天平時代のものか)に「秦倉人奈世麻呂戸口 秦倉人麻呂、越前坂井郡水尾郷」とあり、
又「秦倉人安麻呂戸口 秦倉人刀自賣、同多刀賣、右の二人、和銅二年に越前国に逃ぐ」とあり。
又、「秦人廣幡等與、和銅三年に越前国に逃ぐ」とあり。
*越前国に逃げたのは 租庸調の税から逃れる為の移住なり。
又、平安朝の頃、当国の人に秦豊国あり、その娘は、鎮守府将軍 藤原利仁の母なり。
又、二十四輩順拝図会に「上野山誠照寺は、讃門徒四箇院の随一にして、開基は、如覚上人なり」と、
寺伝に「当国上野庄 領主 秦右京進景之は、元久二年、親鸞聖人の弟子となり、空然と号す」とあり。
22,越中の秦氏 − − 当国礪波郡に八田郷あり。秦氏の住みし地ならん。
天平宝字三年十一月十四日の東大寺越中国諸郡荘園総巻に「射水郡秦吉虫女」とあり。
23,丹波の秦氏 − − 当国何鹿郡に八田郷あり、類聚国史に「延暦二十一年云々、丹波国人秦乙成」とあり。
又、仁和三年六月記に「丹波国何鹿郡人 秦貞雄」とあり。
24,播磨の秦氏
25,美作の秦氏
26,備前の秦氏
27,安芸の秦氏
28,防長の秦氏 − − 延喜の玖珂郷戸籍に「秦氏助、戸主 秦今吉戸」などあり。
又、用田の二井寺は「天平十六年、玖珂郡大領 秦皆是の建てる所」と伝う。
又、長門の儒者に秦守節(貞夫)あり。
29,紀伊の秦氏
30,息長姓
31,讃岐の秦氏
32,土佐の秦氏 − − 当国幡多郡名は、この氏に関係あるか。
後世 当国に栄えたる長曾我部氏は、秦姓と称す。
33,波多姓
34,肥前の秦氏
35,対馬の秦氏 − − 海東諸国記に「秦盛幸、本を唐人に係く。島主 宗成職の時、
書契文引を掌る。丁丑五年、島主の請により、図書を受け歳毎に一船を
遣わす。書して海西路関所鎮守、秦盛幸と称す」とあり。
36,他
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