橋   口(ハシグチ)

解説

福岡県三潴郡城島町、同県山門郡瀬高町、長崎県南高来郡北有馬町

宮崎県都城市、宮崎県西臼杵郡高千穂町、鹿児島県加世田市に

この地名あり。

 

1、藤原姓 紀伊国那賀郡貴志荘の名族にして、続風土記、貴志荘小野村旧家條に

     「地士 橋口氏、家伝に云う、その祖を橋口隼人正藤原友重と云う。内大臣 周藤(高倉帝の

     時の人なり)の末葉なり。

     周藤の子孫 後鳥羽院の時に当りて、上州佐位郡河村にありて 羽五郎と云う。羽五郎、

     治承四年 伊豆国に於いて、平族 佐原五郎、会津蔵人などを討ち取る、時に歳 僅かに

     十五歳、その賞として、金の麾を賜い菊銅の紋を勅許あり。友重、足利義教将軍に仕え、

     関東にて数々戦功有り。又、駿河にて千葉六郎、芦田左衛門を討ち取り、又、河内古市にて

     杉本孫四郎を討ち取る。後、畠山左衛門尉忠国に属し、応永年中 赤松満祐の徒を討ち取り

     又、岡崎源蔵を討ち取る。永享二年、朝廷より、その功を賞して河内、伊豆の二国を賜う。

     友重、河内 高貴城に住す。嘉吉元年、赤松一乱の後、調月村の稲葉藤蔵と云う者の家に来り  

     遂に高野山小田原窪坊に住す。同二年 赤松丹信 高野山に乱入の時、友重 丹信を討ち取る。

     その賞として高野山より調月村にて屋敷地 及び山林若干を与え、諸役免許あり。友重の

     子を忠藤と云う。応仁元年、阿波大膳、高野山に乱入の時、家臣 桜井刑部などを率いて、

     大膳以下五十六人を討ち取る。その賞として、高野山より田若干を与う。忠藤の子を成国と

     云う、永正五年、川根新八と云う者、備後国高野領に乱入す。成国 備後に下り、その乱を

     平らぐ。その賞として、高野山より田若干を与う。

     永禄元年、天下 大旱魃の時、高野山に勅して雨を祈らしむ。この時、成国の末っ子

     又三郎と云う者 八歳にて、勅使の前に出で謡曲をなす。時に大雨忽ち降れり。帝、叡感

     ありて、高野山に黄金百枚を賜い、又三郎に国次の大刀、及び黄金一枚を賜い、高春大夫と

     云う名を賜う。明年、五位に任ぜらる。その後、橋口甚太郎と云う者、天正年中、安楽川

     騒動の時、戦死す(時に二十二歳)

     織田氏、高野山責の時、橋口重藤と云う者、三万余騎を率いて、先手の大将 近藤蔵人、

     細川丹右衛門、竹田藤内、大木権大夫、村川与右衛門、井口喜平太、島 伝五郎、その外、

     首 三十六級を討ち取る。その賞として 高野山より定国の太刀、及び金 三十両を与う。

     後、又、国光、国宗の太刀、及び村中にて屋敷地、山林若干を与え 諸役を免許し 旗を預け

     領内の惣下知を握らしむ。云々」とあり。

2、伴姓肝属氏族 薩摩の名族にして、肝付系図に

     「六代 兼藤二男 兼重(八郎、左衛門尉、周防守、三俣を領す)、弟 三男 兼成(一説に兼経。

     五郎九郎、大姶良を領して橋口を領す)」とあり。

     又、一本系図には「兼重 二男 兼幸(橋口氏)」とあり。

     又、「伴氏の庶流、肝属及び三俣主 肝属兼右の二子 兼市(兵衛尉、三俣院郡司、故に

     三俣氏とも云う)、その子 八郎兼重−兼幸−兼元−兼次−備前守清兼−備前介兼広(氏を

     橋口と改む)−兼令−兼吉−市左衛門尉兼弘−兼元−土佐守兼持」とあり。

     又、肝付郡大伴姓 橋口系図に「肝付氏同族、家譲名は、兼、又 盛。紋章 雁金。初代

     円坊−兼包−兵右衛門−盛般−盛胤−盛庸」とあり。

3、鍛冶橋口家 薩摩国谷山郡谷山郷の名族にして、波平剣匠と云う。地理纂考、波平剣匠條に

     「剣匠。古来よりの剣匠ありて、氏を橋口と号す。その始祖を正国と云う。正国は

     大和国人にて、当国に来りこの地にト居す。正国 後に、行安と改む。三條小鍛冶宗近は、

     正国の弟子なり。宗近は 従四位下播磨守橘仲達の男 橘太仲宗と云いて、法興院殿に仕う。  

     天元二年、罪によりて薩摩に流罪となる。三重野に居て、正国を師とし、鍛冶を業とし

     名を宗近と改む。永禄元年 赦免ありて帰京し、洛東の白川に住むと。

     正国の子 行安は、ェ弘の頃の人と云う。行安の子を又 行安と云う。治安 万寿の頃とす。

     行仁(正国第四の子なり)、安行(行安の孫、長元より天喜の頃と云う)、中古、行安(文保の頃)

     近古、近江守安張(安張寿安と号す、ェ永十九年没す)、大和守行安(安張の外孫にて

     安張の養子となり、元禄八年 七十六にて没す)、勘之丞安行(初名 安氏、後、安行と改む。

     文化五年没す)等、皆 翹楚たり。正国の天元の頃より今に至る九百余年の間、連綿として

     祖業を継ぐ」とあり。

4、他


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