長  谷  川(ハセガワ・ナガタニガワ)

解説

上総国(君津)に長谷川(ハセガワ)あり。(長谷・長谷部参照)

数流あり

長谷川の地名は 全国に53ヶ所あり。

関東以北の地名は、ハセガワと読み、以南は、ナガタニガワ或いは ハセガワと読む、ナガタニガワと読む方 多し。

分派氏族

 

1,中原姓 大和国十市郡の名族にして、十市縣主の裔 中原姓なれど、一説に

       藤原姓とも称す。春日若宮 至徳元年四月の大和武士交名に「長谷川党、

       唐古殿、云々、十市殿」など載せ、又、大和武士春日大宿所勤番次第に

       「長谷川等()、十市、姓中原、十市郡山城住、十萬石」とあり。

       見聞諸家紋に「使い鷹」と。

2,在原姓 式上郡長谷より起こり、長谷川党と称し、又、法貴寺党と云う。

       上記所載、至徳の長谷川党とは、この氏を指すならん。

       新編常陸国志に「長谷川。大和国長谷より起こる。多武峰縁起に、

       承安年中の人、長谷川三郎季俊、長谷川主殿正経など云う者あり。これ

       長谷川氏の初祖と見えたり」と。

3,秀郷流藤原姓尾藤氏族 これも大和発祥と云う。家譜に

       「帯刀左衛門尉公澄−知基−尾張守知昌−尾張守知忠−知宗−季康−武者所宗遠

       −有経−遠経−宗兼−宗康−宗継−宗重−宗有−有経−秀光−秀宗−宗昌−宗郷(惟康

       親王に仕う)−秀久−秀仁−宗忠−満兼(足利義満に仕う)−秀和−基昭−知経−宗茂(源三郎、

       寛永系図にこの時、長谷川を称すと。また一説に、大和国に住し、義政に仕え長谷川の称を賜うと)

       −宗常−宗的−宗仁−守知(徳川氏に仕え一万石を領す。ェ永九年十月一日卒)−正尚、弟 守勝

       −勝知−勝房、義弟 勝清−丹後守勝富−勝孚−乙之助、三千百十五石、

       家紋 三藤左巴、丸の内に竪三引」と。

4,秀郷流藤原姓下河辺氏族 − − 家譜に「下川辺四郎政義の二男 小川次郎政平より 三代 次郎左衛門政宣、

大和国長谷川に住す。これより長谷川を氏とす」とあり。

5,山城の長谷川氏 紀伊郡竹田村に長谷川氏あり、その他、上賀茂社 社家に存し、

又、稲荷社社家(役人)にもあり。

6,菅原姓 江戸幕臣にして、ェ政系譜に

       「善右衛門孝保−孝正−高ェ、家紋 葉剣梅鉢、向梅」と。

7,清和源氏満政流 摂津国能勢郡長谷村より起こる。山田左衛門景政の次男を長谷川景通と云う。

       又、豊中村新免に長谷川氏の名族あり。

8,中臣姓河内和田氏族 − − 和田系図に「(郡戸)中大夫貞親の子 貞言、長谷川中務と称し、その子に僧実軌」とあり。

9,利仁流藤原姓進藤氏族− −伊勢国発祥にして、進藤為輔の後なれど藤直の時、外家の号を称して、この氏を称すと云う。

ェ政系譜に「宮内少輔有国(伊勢国一志郡に住す)−内記俊国−次郎兵衛俊春−加賀守義俊−三郎左衛門藤直

−波右衛門重吉、弟 左兵衛藤広、弟、忠兵衛藤継。家紋、丸の内二引、藤の丸に桧扇」とあり。

藤広は、家康に仕え、長崎奉行となり功多し。その子に左兵衛広貞、半兵衛広永、五兵衛広直、

左馬助広清などあり。

10,利仁流藤原姓石黒氏族 − − 尾張国春日井郡如意村の名族にして、尾張志に

「長谷川大炊助藤原重行は、本氏・石黒、応永三十一年、山田郡神戸に隠る。これもと越中の

宮方にして、信濃宮に忠ありし者なり」と。

又、中興系図に「長谷川。藤原姓、利仁将軍の裔、石黒氏分流」とあり。

11,尾張の長谷川氏 − − 当国葉栗郡北方の人に長谷川藤五郎秀郷あり、信長に仕え、後、秀吉に従いて、

越前国の東郷を領し東郷侍従秀一と云う。文禄三年、朝鮮の陣に卒し、除封となる。

又、甫菴太閤記に「伯耆 比田城、長谷川藤五郎」とあり。

12,橘姓 美濃発祥にして家紋 桧扇、丸に橘、ェ政系譜に

      「越中守重矩(重則・信長に仕う)−次右衛門重勝−重治」と。

重則の弟 「甚兵衛重成(信長秀吉に仕う)−四郎兵衛重次−四郎兵衛重政−四郎兵衛重俊」とあり。

13,遠江の長谷川氏 − − 幕末、浜松の神官に長谷川貞雄あり、明治になり功多し。

14,相模の長谷川氏 − − 天正時代末期、三浦郡の代官に長谷川七左衛門長綱あり、海宝院を創建す。

西来寺文書に「長谷川七左衛門殿」とあり。

15,武蔵の長谷川氏 − − 新編風土記 荏原郡大井村條に

「村民の伝によれば、昔 当所の地頭に長谷川豊前守と云う人あり。この人 天正八年の頃

検地せしが、その縄いと厳密なりしかば、阡陌を開く年もあらで、許多の畝歩を打ち出せしにより、

村民等、貢税の重きに堪えざりしと云う」とあり。

又、分限帳に「長谷川弥五郎、都筑郡成合村にて、十二貫八十四文を領す」とあり。

又、高麗郡柏原村の名族にあり。「先祖は 長谷川内膳久吉と称す。古書 若干ありしが、

故ありて百年前に散逸すと云う。天正年間の水帳の遺冊に載する処、今の段別と異にして

畝歩と云うものなく、二百歩を大歩と唱え、百五十歩を半歩、百歩を小歩とせり。或る筆記に

天正十九年 検地奉行 寺田右京が糺せし 下野国足立郡羽田村の水帳に かかる例見えたり。

されど その水帳は、一段三百六十歩の古法にて、大小の歩を用いしと云う。これぞ その頃

糺せしものなるべし」と。

又、御府内備考に「下谷上野 新黒門町、長谷川七郎右衛門。右七郎右衛門方、元和人参と

唱え候儀は、長谷川安清と申す者の先祖 長谷川和泉と申す者、高麗御征伐の節、武功を以って、

月池翁人参伝記、並びに朝鮮人参の種を取り候儀、一人に伝え来り候に付、本朝人参出生を

安清より御役所に書留これなきを御訴訟申し上げ、元禄三年七月二十日、御免許これ有り候処、云々」とあり。

16, 医師 長谷川氏 − − 幕府芸者の書付に「二百俵、医師 長谷川玄通、今程 五百石、寄合 長谷川玄通」とあり。

又、ェ政系譜に「玄通(正寿院)−道益(玄通)−名可(多之助、玄通)」とあり。

「某(玄通) 延宝三年、綱吉に拝謁し番医となる、その六代の孫 玄貞、賭博せしにより遠流せらる」と。

17,常陸の長谷川氏 大和長谷川党の流にして、第2項の族なり。新編国志に

       「茨城郡福田村の長谷川氏は、著姓なり。天正年中、長谷川豊前信綱、弟 豊後綱重などは、

この村の人なり」とあり。

       又、和光院過去帳に「長谷川但馬守は新右衛門の父」とあり。

18,岩磐の長谷川氏 − − 新編会津風土記 河沼郡黒澤村條に「館跡、長谷川主殿某と云う者住せし」とあり。

又、大沼郡小谷村旧家條に「長谷川雄右衛門、この村の肝煎りなり。先祖は 長谷川五郎国義とて、

大和国の長谷に住す。後、河内守と改め、荘園多く領せしが、九代の孫 越中守某、浪人して

会津に来りしより、この村の長となれり」とあり。

又、安積郡福良村の鬼渡神社の神職に長谷川日向あり、「その先を造酒丞某と云い、延宝中、

始めて神職となり、四世にして今の日向家長に至る」と云う。

又、田村家臣にあり。又、青津(生江)氏 四家老の一人にあり。

19,越後の長谷川氏 − − 新編風土記に

「旧家 長谷川源左衛門、村の肝煎り也。長谷部信連の子孫と云い伝うれども、系譜を失い、

如何なる故にて、長谷川を名乗りしか知れず」とあり。

又、「広瀬村の肝煎り 長谷川甚八と云う者、文禄三年の水帳を蔵す」と。

又、「行地村(蒲原郡)の肝煎り 長谷川義右衛門、古文書数通を蔵す」と。

又、野史に「斎藤弘恵 配下の武士に長谷川基連あり、川中島 決戦の日、謙信の命を受け、

甲軍の将 安間弘重と戦う」とあり。

又、弥彦神社の神官に長谷川氏あり。

又、幕末、蒲原郡粟生津村の長谷川誠の子に鉄之進世傑(公興、号 強庵)あり、勤王の士なり。

又、三條の画家に長谷川嵐渓(荃、芳渓)あり。

20,山陽の長谷川氏 − − 芸藩通志に「山縣郡中原村の長谷川氏。先祖 長谷川彦左衛門は、吉川家士

浅枝因幡に仕う。天文年中、浅枝氏、上石村に移り、彦左衛門をしてその古宅に居らしむ」とあり。

又、毛利藩士に長谷川好道あり、明治時代 将軍(元帥陸軍大将)として功多く、伯爵を賜う。

21,紀伊の長谷川氏 − − 当国那賀郡国分荘の名族にあり。続風土記 国分荘 西国分村旧家條に

「六十人地士 長谷川半左衛門、その家伝に云う、その祖は 澤越中と云う人の臣にして、

長谷川助右衛門と云う。備中高松城の水攻めの時、戦功あり。越中、淡路を領し、

助右衛門は 須本浦の船奉行たり。その後 池田勝入(恒興)に属し、又、中村孫平次に属す。

根来一乱に泉州の岸和田にて戦功あり。その後、又諸家に属すと云う。三代目 半右衛門と云う者

浪士となり、当村に来り、元和五年、地士となり、代々当村に住す。家に天正 文禄の文書を蔵す」とあり。

22,阿波の長谷川氏 蜂須賀藩の文武有功の士に この氏見え、以来 同藩の重臣なり。

       又、ェ永中、稲田氏と共に淡路洲本城を築く。

       又、当国の国学者に長谷川貞彦あり。

23,肥前の長谷川氏 − − 古史伝に

「富士講。天文年間に肥前長崎に生れし、長谷川左近竹松と云う人、富士修行をなし、

正保三年に百六歳にて 人穴に入定す、法名 角行東覚と云う。その道統は、日玵、玵心、月玵と

相続し、元禄 享保の頃、その講社 益々盛大になり、月心並びに村上光清と、

月行並びに食行(身禄)との二流となる」とあり。

24,日向の長谷川氏 − − 日向記に長谷川中務の名あり。

25,絵師長谷川家 長谷川流の祖 等伯は、能登国七尾の人、始め狩野派を学び

       雪舟や中国の牧渓に私淑して遂に一派を立て、古典的水墨画を復興、

       更に金碧 障壁画にも傑作を残す。

       その子 宗也、久蔵、養子 等林(本姓 小野)、門人 等的(本姓 小野)

       族人 等重、等林の養子 等作、など皆名あり。その他 左近(等伯の男と云う)

等悦、宗宅、宗圓、その子 等雲、宗清、雲嶺、その子 雲貢、珠長など皆 雪舟派の画伯なり。

       又、狩野派に長谷川養辰など皆 名高し。

       又、浮世絵にも多く、長谷川雲朝、長谷川新之丞、長春(雪舟末孫と云う)、永春、信春、

その子 永信など特に名あり。

26,他


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