長  谷  部(ハセベ) 

解説

御名代部の一にして、雄略天皇の御諱・大長谷若建命

(オオハセワカタケのミコト) の長谷を名に負い奉りしなり。

この天皇は、泊瀬朝倉宮に座せり。長谷は、和名抄に大和国

城上郡長谷郷(波都勢)とある地にして、天皇の御名は、この

地名を負い給へるなり。

古事記 雄略段に「長谷部舎人を定む」と見えるを思えば、

この御名代部は、雄略天皇の舎人部の裔なり。

分派氏族

 

長谷部 諸国に多く、後世は多く、長谷部信連に附合す。

1,参河の長谷部 神護景雲二年九月記に「参河国碧海郡の人 長谷部文選 云々、

       少初位上を授く」とあるは、この部の裔にして、和名抄、碧海郡に谷部郷を収む。

谷部は、長谷部の上略なり。

2,上総の長谷部 当国長柄郡に谷部郷あり、和名抄に「波世倍」と註す。

3,越中の長谷部 当国新川郡に長谷郷ありて、高山本及び和名抄に「波世」と註す。

4,長谷部直 景行帝の御裔にして、三河長谷部の伴造家なり。皇孫本紀に

       「五十挟城入彦命(景行皇子)は、三河長谷部直の祖」とあり。

5,能登の長谷部氏− 長谷部の裔にして、源平盛衰記に「高倉宮に仕え奉れる侍に

       長谷部信連あり、長兵衛尉と称す」と。後、頼朝より、能登国珠洲郡

       大屋庄を賜う。

東鑑、文治二年四月條に「右兵衛長谷部信連は、三條宮の侍なり」と。

       又、建保六年十月條に「長谷部信連法師、能登国大屋庄 河原田に於い

       て卒す。これ本の故、三條宮の侍、近くは 関東御家人也。長馬新大夫

       為連の男なり」などとあり。この子孫、単に長を以って氏とす。

       三州志に「長谷部信連、始め能登郡の熊木に住し 後、穴水大屋荘河原

       田に住すと、長家記に見ゆ。これより長氏、歴世の間、往々 転居は

       あれど 二十世の綱連まで、三百八九十年余り、この穴水に居城せり」と。

6,越後の長谷部氏 − − 新編会津風土記、蒲原郡栃掘村條に「館跡、村民伝えて、治承年中、

長谷部兵衛尉信連、高倉宮に従い来り、守護の為 ここに築く。信連もと大和国広瀬郡広瀬郷を

領せしかば、故郷忘れ難く この名をここに移し、広瀬城と名づけしとぞ」とあり。

7,甲斐の長谷部氏 − − 長谷部左衛門尉景氏の後なりと云う。誠忠旧家録に

「長谷部左衛門尉景氏の後胤、西野村 長谷部與一左衛門亮長」とあり。

8,武蔵の長谷部氏 − − 当国榛沢郡小前田村の名族にして、新編風土記に

     「先祖 長谷部信連の末葉と云う。今も信連の遺物とて小袖一つあり、按ずるに東鑑に

     長 馬 新太夫為連の男 左衛門尉長谷部信連法師、能登国大屋庄 河原田に於いて、建保

     六年十月二十七日卒せし事見ゆ。今 加賀藩士 長甲斐守等は、その子孫なりと云う。

     されど その族 遠く当国へ移る事、いかなる故にや、今に伝えず。兵庫は、鉢形北條に

     仕え、氏邦落去の後、農民となり、当国に住せり。

     又、村内 荒川の辺に備前守居住せし跡と云うあり。今も屋敷跡と呼べり。成田氏長、及び

     北條氏邦よりの文書あり」と。

9,尾張の長谷部氏 − − 当国中島郡の名族にして、長谷部信連の庶胤 信近(大塚村)の子 民部大輔源政(唱吽)、

その子 政泰入道明阿、その孫 長又三郎持信は、建武年間の人なり。性海寺縁起に

「郡主 民部大輔源政は、貞観帝 第六皇子 貞純親王の苗裔、長谷部信連の庶胤、信近の子なり」とあり。

又、長谷部系図に「信連の曾孫信近−唱吽−政泰(明阿)、孫 長又三郎持信」とあり。

10,幕臣 長谷部氏 第5項の裔なり。ェ政系譜に

       「清右衛門(仁左衛門)−仁左衛門(清助)−同 信貞−清右衛門利貫−信利、

       家紋 三銀杏、丸に三引」と。

11,源姓 長谷部氏 − − ェ政系譜に「藤右衛門長明−惣十郎長技−藤右衛門長登、家紋、丸に三柏、蔦」とあり。

12,伯耆の長谷部氏 − − 当国日野郡下榎村 厳島神社は、長谷部信連の子孫、厳島より勧請す、と伝え、

旧神主は、長谷部氏にて、古い棟札に長谷部氏の人多くあり。

13,備後の長谷部氏 − − 当国甲奴郡の名族にして、芸藩通志に

「薄子山は、深江村にあり。長谷部右衛門(信連の裔と云う)の居城なり。一説に右衛門は、

郡内上下村、護国山に城す。これ その支族の所居なるべしと云う。両所に居りしも忘るべからず」とあり。

又、「長谷部信連の子 良連、承久三年、官軍敗走の後、来りて、甲奴郡に蟄居す。その子孫、

或いは官軍に属し、又、尊氏に属し、応仁の頃には、山名に属し、その後は 尼子に従う。

凡そ十二代を経て、元信より毛利家に属し、元近、秀近、実連同じく戦功あり」と。

14,安芸の長谷部氏 − − 当国賀茂郡の名族にして、芸藩通志に「長谷部氏。先祖 長谷部信良、毛利氏に

仕えて戦士す。遺志あり、母に養われて姓を冒し、内田宗左衛門元連と称す。後、農民となる」とあり。

15,筑後の長谷部氏 − − 将士軍談に「長谷部氏。長谷部信連、開基帳に云う『生葉郡田籠村 諏訪大明神、

開眼建立 未だ詳かならず。ェ正四年、長谷部時信の再興』云々と。或る記に云う『長谷部信連は、

新川村長岩に居り、新川、田籠、小塩、妹川、小坂、流川、溝尻、朝田、隈上、山北、大石、原口、

橘田等の数村を領し、時信に迄んで十七代、その家断絶』と。今 按ずるに、姓氏録に長谷部造は、

神速日命十二世の孫 千早見命の後也と。豊後津江住津江 周防守長谷部鑑盛、竹野郡中にありしこと

物に見えたり。時信は、この祖先なるべし。加賀公の老臣で魚住の城主は、長九郎左衛門、

長谷部信連の苗裔にして、長の一字を取って家号とす。異本太平記、延文四年に長九郎兵衛あり。

見行本、康安元年に、長九郎左衛門あり。肥後玉名郡石貫村広福禅寺の所蔵、菊池武重の真蹟文書に、

兵藤山まいりて候こそ目出度く候とあり。兵藤山とは、豊後日田郡兵藤村にて、当時、津江住人 故

高倉宮の侍 長兵衛尉の後の長谷部信雄と云う人の所領なりき」とあり。

又、「生葉郡新川村 長岩城跡、山腹岩間あり。本丸北面、東西十間、南北十五間。二の丸、東西十間、

南北十五(或いは三十五間)(集)。或いは云う、この城は、長谷部氏の築く所にして、代々ここに居ると。

未だ詳かならず。系図に『安芸守鑑豊ここに居る』と。地鑑、実記に、重直、初めてこれを築くと。

西国城館集に云う『刑部大輔統景ここに居る』と。系図を按ずるに、統景は、鑑豊の子、初め

次郎左衛門と号す。集記、地鑑、並びに云う『重直の子 次郎右衛門、天正中、大友の旗下となり、

十三年ここに拠る』と。その後、小早川隆景に仕え、朝鮮役に戦死す。その子 三右衛門、立花家に仕え、

三百五十石を食む。子孫今なお存す。黒木勢、当城を攻めし時、村中栗木名の山中に陣す。その地を

黒木陣と云う。天正中、秋月勢 攻め来りし時も、その地にて合戦ありき」とあり。

16,豊後の長谷部氏 津江の名族にして、長谷部信連の裔と称す。

       肥後国志に「豊後国津江山の住人 長谷部山城守信経、菊地家と連年不和なりしが、ある時

 肥後守武光、追間川に逍遥しけるを信経 聞きつけ、手勢三百人を率いて、馳せ来たり討たんとす。

武光 二十四人の人数にて、信経を追い散らし、百余の首を討ち取る」とあり。

       又、樋口系図に「豊後柚木村津江 周防守長谷部鑑盛の娘」とあり。

17,他


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