原   田(ハラダ)

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 

分派氏族

 

1,大蔵姓 鎮西屈指の名族にして、筑前国御笠都(筑紫郡)原田村より起こり、

       岩戸館に拠る。その出自に関しては、原田家伝に「大蔵氏は、漢高祖

       十五代の後胤、後漢の孝靈皇帝の子 阿智使主王、その子 阿多倍、漢家を

辞して、倭国に入る。応神天皇の御宇なり。その子 大蔵の伊美吉、

       播磨国を賜い、明石の大蔵谷に居住す」と云う。

又、児玉氏編纂系図に「(一代)春実(従五位下、対馬守。遠祖は 後漢孝靈帝の曾孫

阿智王の後、姓を大蔵朝臣と賜う。天慶三年、征西して 遂に留まりて 筑前御笠郡の

原田城に住み、名を春種と改む) 云々。三十四代 嘉種(後に種次と改め 伊予と称す。

会津侯に仕えて二千石を領す。明暦三年、分領して両家となる。万治三年八月二十九日卒)」と。

2,筑後の原田氏 上記の裔「原田 種貞の兄 種宗、足利尊氏に属し、多々良浜の合戦に軍功ありて、

後に筑後に至りて、原の家を継ぐ」と。

鎮西要略に「原田並びにその一族 原等、大内家に属す」とあり。

3,肥前の原田氏 第1項の族なり。

       後世、佐賀儒者に原田喬あり、

       又、佐賀藩士 原田種茂は、幕末 明治に功多し。

4,菊池氏族 肥後国球磨郡に原田村あり。この地より起りしもあらん。

       菊地風土記に「菊地十八外城、鷹取城、染土 原田五郎代々居る」と載せ、

       また、「鷹取古城、染土村にあり、鎮西八郎為朝の城跡と云う、おぼつかなし。

これ即ち菊地十八外城の内、原田五郎受け持ちの所なり」と。

       又、菊地系図に「(宇都宮)為光−経兼(原田七郎)」とあり。

5,天草の原田氏 第1項の族にして、天草系図に

       「大蔵春実(対馬守、その先は、後漢の孝靈皇帝の曾孫 阿智王より出づ。

       その国の乱を避けて、播磨国明石浦に来たり大蔵谷に住居す。その子

       テキ香王の後、祖先の始めて来たり止る地名によりて、姓を大蔵と賜う。

       事蹟通考に『大成武鑑には春実は、靈帝五代孫 高貴王志孥直の六代

       大蔵氏大国の後孫なりと載せ、九州記、及び古城主考には、靈帝の孫

       獻帝之後胤 阿多倍王、大化元年帰化、大蔵谷に住す。その二子 貴重王

       は、是れ大蔵姓の祖なり。十二世の孫 春実、藤原純友 追討の功により、

       筑前三笠郡を賜いて原田に住む(この時、菊桐の御紋、日の丸の御印

       を拝領す)。故に嫡流は原田を以って称号となす。

       波多江、秋月、江上、高橋、天草、上津浦など皆その末裔なり。春実

       後に春種に改むと云う。大友記には春実の時、大蔵の姓を賜うと孰れ是

       なるかを知らず云々』と)−種光(長門守)−種材(壱岐守)−種弘−種資

       −種生−種直(原田太郎、寿永二年、平家京都を逃れ西海に赴く。種直、

       安徳天皇を奉じ数々功あり、故を以って源頼朝、種直の本領を没収し、

       僅かに筑前夜須郡秋月荘を賜う。その子 種雄、秋月城を築きてここに

       居り、家号を改めて秋月となす)−某(天草の祖、原田種直の孫と国志略

       に見ゆ、然れどもその世次は、詳かならず、天草郡本渡を領して、家号

       を天草と称し、代々本渡城に居る)」と。

6,豊後の原田氏 園田帳に「阿南庄森村一町六段、原田三郎左衛門良忠跡」と載せ、

       又「山田郷栗本名(栗野名)八町新荘、肥後(一説に筑前とも筑後とも)

       御家人 原田七郎種秀」と。

7,豊前の原田氏 田川企救郡の名族にして、応永の頃、原田種光、永享 応仁の

       頃には、原田種房、その後 同貞親、天文 永禄の頃には、原田貞種あり。

       国志に「田河郡岩石城は、天文十九年より 原田義貫 在城す」と載せ、

       又、豊陽古城記に「明神山城は、田河郡桑原村にあり、原田伊賀守居る」とあり。

       又、宇都宮文書、知行御領衆に「高森、原田伊予」を載せ、満光寺文書、

       人数積(天文)に「高森城。これは旗下なり、原田伊予守種興」と。

       又、九州軍記に「永禄五年、大友宗麟は、原田親種が篭もりたる香春城を攻むべしと、

六千余騎、香春岡の城へ寄せければ、原田防ぐに万策つき、鬼嶽を打ち捨て、

三之嶽へ引上る」と。親種は、一説に義種、また義重とも記す。

       又、宇佐郡、天文の頃より、原田豫種、同 紹忍などあり。

       又、徳川時代、中津藩儒に東岳 原田吉左衛門直殖あり、元 越後の人、

       藩の重臣 原田氏を継ぐ、学名高し。

       又、慶安元年、無礼村住人に原田信澄あり。

       又、小倉の神官 原田周防守重枝の弟 七郎種方(大江豊雄)は、勤王家にして、

高橋伊賀と事を挙げんとして殺される。

8,菅原姓 菅原道真公 筑紫にての子の後なりと云う。

       又、菅原氏系図に「道真−淳茂−在躬−輔正(北野宰相)−忠貞(原田)」と載せ、

       中興系図には「原田。菅原姓」と。

9,防長の原田氏 多くは第1項の後ならん。後世、阿武郡玉江浦の人に原田與三郎あり、

大いに漁業に意を用い、文化の頃、壱岐対馬より朝鮮近海に出漁して大利を得、

遂に五十艘に及び、明治に至り模範漁村として、賞せられる。

       又周防都濃郡末武村の人 原田良太郎は、幕末より明治に亘り武功多し。

10,芸備の原田氏 安芸国豊田郡に原田村ありて、同村宇禄山城は、原田蔵人の所居なり。

       又、備後三谿郡の名族にして、芸藩通志「有原村原田氏。先祖 原田播磨述種は、

大蔵春実の末なりと云う。春実は、藤原純友を追討して、功ありければ、

筑前国を賜り、御笠郡原田村に住し、よって氏を原田と称し、名も後には、春種と

改むと云う。按ずるにこの家に伝わる所は、右の如くなれど、史乗に載る所によれば、

春実は、備前、播磨守となさると見えたれば、家伝と合わず、されど、大日本史

平宗盛伝に、筑前に原田種直なるもの見ゆ。家伝の説もまた、考うべし。それより

二十五代 述種、筑前を去りて大内義興に属す。義興 述種を以って備後の江田

       隆実に托す。隆実 その女を以って妻とす。その子 幸種の時、大内 既に亡び、

尼子家は、敵家なればとて、従わず。尼子、攻め来たりければ、遂に城を焼いて自殺す。

その弟 扶種は、尼子家に降りけれど、仕えず。その子 氏種は、毛利氏に従い、

朝鮮の役にも戦功あり。それより、敦種−康種−常種−通種−純種−善政−種政−政督を経て、

今の源左衛門に至る。全て十三世」とあり。

11,備前備中の原田氏 − − 備中の大島の領主に原田友実あり。

又、「藤原姓、原田常通−左馬允維利(清次郎、宗馭。小早川秀秋に仕う。後、幕臣)。

家紋、揚羽蝶、丸に梶葉」。

又、幕末、上房郡松山の人 原田一作(亀太郎広)は、勤王家として名あり。

又、明治に原田一道あり、軍人として名声高く、男爵を賜う。その男 豊吉は、

地質学者として有名なり。

12,美作の原田氏 − − 美作国久米郡原田村より起る。菅家系図に

「満佐(三穂太郎)−忠門(原田日向守、原田郷稲荷山城主)」とあり。

又、作陽誌に「上総介平忠常の五男 忠高、肥前国高木郡の原田に住し、原田次郎忠高と号す。

天喜五年春、肥前守、康平二年(前九年役)、出羽杉谷戦死。その男 忠次−忠中、興方、

保安四年二月、作州に配流せられ、後、許されて葛蟲庄を賜う(原田村)、同五年十一月、

狐山の下に室館を築き、稲荷山城と号し、原田下野守と名乗る。その後は、忠光−光興

−忠廉−忠頼−頼興−頼勝(元弘、笠置城に入る、建武四年 尊氏に従い戦功あり)−忠勝

−忠平(河内守)」と。

又、「興方 十三代の孫 忠行に三男あり、長男を忠文、その子 池上内蔵之介、稲荷山城主

播磨守忠長、その子 小次郎、宇喜田直家に仕う。小次郎、元亀元年、稲荷山城を再興して

原田三河守貞佐と名乗る」と云う。

13,播磨の原田氏 − − 承久記に「播磨国の住人 原田右馬丞」とあり。

14,丹波の原田氏 − − 当国氷上郡の名族にして、丹波志に

「原田氏、子孫 下瀧村の支、青田村。古家なら、先祖 檜の曲物を作り、上瀧村より

禁裏へ栗を献ずる器を作る」と。

又、「原田平太夫、子孫 上三井庄村、云々。二代 小太夫。今 本家 小太夫、分家 文蔵、

友平、利右衛門、甚之亟、藤七、助市、安右衛門、林七、共に十軒」とあり。

15,松本氏族 摂津国兎原郡原田村より起こる。当村の名族にして、その先、

       信濃松本より出づ。赤松円心に属し、神戸花隈城に居り、後裔、荒木村重に属し、

戦敗の後、当村に居住すと云う。

16,摂津の原田氏 − − 摂津国豊島郡に原田庄あり、この地名を名乗りしもあらん。 

原田城の原田氏については、

「原田備中守直正は、信長の命により、筒井順慶と共に天王寺の砦(勝曼城)を守りしが、

天正四年五月三日、本願寺の兵と戦い、益田将監に討ち取らる。天正六年十二月、信長、

荒木村重を討つ際、中川清兵衛、古田佐助を当地に置けり。後、野口肥前守の男

萬五郎冬長、原田城主 備中守直正の養子となり、原田氏を継ぎ、孫四郎基之に至り、

元禄年間、野口姓に復し、領主 鈴木氏の代官となる」と。

17,清和源氏 − − 阿波国の名族にして、故城記に

「板西郡分、原田殿、柿ノ原、源氏、家紋、五骨扇、松文字」と。

また一本に「原田殿、源氏、家紋、松文字」と。

18,紀伊の原田氏 − − 当国名草郡の名族にして、続風土記、梅原村條に

「原田氏末葉。村中に原田備中守・家老 原田喜左衛門の末葉と云う者あり」と。

19, 伊勢の原田氏 松坂の名族にあり。原 清一郎の男 原田二郎翁は、巨万の富を得、

       原田積善会を起こし、公益事業に尽くすところ大なり。家紋 太輪の内に鳩酸草。

20,近江の原田氏 − − 蒲生郡八幡の名族あり、柳外原田四郎左衛門譲は、元 磯部氏(神崎郡金堂村)、

この家を継ぎ学名あり。

21,菅原姓 − − 尾張の名族にして、中興系図に「原田、菅原姓、本国尾張、右大臣道真公の男

民部大輔滋殖の四代 肥前守忠貞 之を称す」とあり。

22,尾張の原田氏 − − 当国春日井郡比良村の塙九郎左衛門直正は、信長に仕えて功多く、

原田姓を賜いて、原田備中守長俊と称す。大阪の石山城攻めに戦死す。

又、享保の頃、愛知郡生路村の人 原田喜左衛門は、国産の砂糖を製す。

23,平姓の原田氏 三河の豪族にしてェ永系図、平姓とす。

       原田次郎大夫種直の裔と云い「平氏没落の後 囚人となり、鎌倉に在り、

       数年の後、頼朝、種直の弓馬の術に長ぜるを惜しみ、赦免ありしも、

       故郷へ帰るを恥じて、三河国久木村に閑居す」と伝う。下りて、権左衛門種明は、

荒木流馬術家として名あり。家康に仕う。家紋 丸に三引、重桔梗、下り藤丸。

24,大蔵姓 − − 幕臣にして ェ政系譜に「良久−清嗣−俊房−俊隆−俊賀(天明六年遺跡を継ぐ)、

家紋、抱沢瀉、剣花菱」と。

25,三河の原田氏 − − 当国額田郡大谷村の武士に原田次郎太夫あり。

又、碧海郡明知城(明知村)の城主に原田勘兵衛、原田三九郎などあり。

又、碧海郡の橋目城主に原田七蔵あり。

又、設楽郡にも存し、二葉松に「見代村 古屋敷・同宇津木と云う所、筒井善右衛門、

原田喜右衛門 居住す」とあり。

26,藤原姓 − − 三河の原田氏にして、喜兵衛正利、紀州家に仕う、その子 正親、幕臣なり。

ェ政系譜に「甚六正親−同 正勝(正重、松五郎)、家紋、角内に七星、丸に四目結、丸に三引」と。

27,藤原南家工藤氏族 遠江国佐野郡原田庄より起こる。工藤二階堂系図に

       「原工藤大夫維仲−出羽権守師清−遠江権守清仲−清延(原田権守)」とあり。

28,相模の原田氏 − − 当国足柄郡 遠藤村の五所八幡宮 文明十三年の棟札に

「上中村郷 五所八幡云々、建立施主 平朝臣景貞、神主 原田四郎左衛門尉國吉」とあり。

29,武蔵の原田氏 − − 小田原北條家臣に原田和泉守あり、子孫、田中氏と云う。

又、川越の画家に原田圭岳あり。

30,秀郷流藤原姓 上総の名族にして、原田秀国は、久留里城に居る、その子

       八郎秀光に至り、近江国に移る。

30,真髪部姓 − − 常陸の名族にして、新編国志に

「原田。真髪部氏なり。原田を以って称号とせるは、その起る所を知らず。

鹿島の神官にて、小笛職に居るものなり」とあり。

又、久慈郡稲村神社の社家にあり、二十八社考に

「稲村三座神、その一は、町付近にあり、これを中宮と云う。級長戸邊命・中間にあり、

面足尊、惶根命、左右にあり。原田氏を以って祠官となす」とあり。

32,奥羽の原田氏 − − 会津藩の原田氏は、第1項の嫡流なり。伊達政宗家臣に原田左馬介あり。

又、江戸時代初期、家老 原田宗輔は、伊達騒動の当事者なり、

また、幕末には家老・原田種龍、朱雀隊・原田種英らは 官軍と戦う。

又、信夫郡南矢ノ目村の八幡宮は「古えは、原田甲斐守 守護神也」と。

33,加賀の原田氏 前田家臣に原田又右衛門あり、天正十三年、倶利加羅城を守る。加賀藩給帳に

「三百石、紋 三巴、原田又右衛門。八十石、紋  三巴、原田惣平」とあり。

34,他


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