(ハラ)

解説

諸国にこの地名(520ヶ所)ありて 多数の氏を起こす。 

分派氏族

 

1,伊勢の原氏 松坂の名族に原氏あり、伝え云う「ェ政の頃、殿町に原忠兵衛あり、

       文化十三年七月二十日没す。その男 平助、原田氏に改め、天保十三年

       十二月十四日没す。嗣子なく、同国の地士 田中彦左衛門の長女 時雨子

       を養い、積良の地士 東谷小平次の六男 清一郎を迎えて婿とし家を継が

       しむ。和歌山藩士に原 清一郎あり、関係あるかと云う。

       又、清一郎の男は、 原田二郎翁と云う」と。

2,橘姓 橘氏系図に「成瀬盛宗(柏木本領主)−橘権守盛俊(武蔵守)−橘俊綱

       −原太郎入道」とあり。

3,近江の原氏 蒲生郡の名族に原氏あり、郡史に「古くより蒲生氏に仕えし家

       なり。享禄四年四月、箕浦合戦の際、定秀に従いて戦死したる原道久

       など有り」と。

       又、京極家臣に原氏あり、源氏と称す。その裔 総右衛門元辰、浅野

       長矩に仕え三百石を賜う、赤穂義士 四十七士の一人なり。

       又、京極殿給帳に「七十石、鷹匠 原兵吉」あり。

4,清和源氏満政 尊卑分脈に「満政五世孫 佐渡源太冠者重実−八島近江守重成

       の子 光成( 原源太、重時の子となる)」と載せ、また、重実の弟

       「(相模)重時(無髪判官)−光成(源重成の子、号 原源太)」などを載せ、

       又、中興系図に「原。清和源氏、源太光成これを称し、旡髪判官と号す」と。

5,清和源氏山県氏族 美濃の名族なり。山縣系図に

       「山縣先生国政−頼清−頼忠( 四郎)」と。

6,清和源氏土岐氏族 これも美濃国の名族なり。当国郡上郡、恵那郡などに

       原村あり、ここ等より起りしならん。土岐の一門にして、尊卑分脈に

       「頼光七世孫 土岐判官光行−光定−定親−師親( 原彦次郎、弘安中、

       常陸信太庄の地頭たり)−師実(原弥次郎、弟に土居遠江守貞秀、

       民部少輔満秀あり)」と。家紋 桔梗、丸に桔梗、生花桔梗。

       その他 永享以来御番帳に「一番、土岐原駿河守」を載せ、

       文安年中御番帳に「一番、土岐原備中守」とあり。

7,美濃の原氏− 元亀天正の頃、原彦四郎あり。越前に発向して功多し。野史には

       「原彦二郎房親、姓は藤原、天正三年、越前大野郡二万石を賜う」と

       見ゆ。賎ヶ嶽戦に「原、 隠州 山寺山に陣す」とあるも この人にして、

       当時柴田氏に属せしが、後に秀吉につく。

8,良峰氏族 尾張発祥の名族にして、良峰系図に

       「(椋橋)恒季−季高−高成(二宮大宮司、号 原大夫、治承四年、関東に

       参り、軍忠を抽んじて御感に預る)−高直(原大夫)」と。

       又、大橋家伝などに「尾張国住人、原 平大夫高春」とあり。

9,三河の原氏 碧海郡浮谷城(浮谷村)は、二葉松に

       「城主原右衛門、酒井左衛門、此所昔合戦あり」と。

       又、賀茂郡「渡合村 古屋敷、原半之助」などとあり。

       又、幕臣原氏は、土岐美作守光衡の後裔と云う。ェ政系譜に

       「監物胤親(家康に仕う)−一永−政久−政辰−政胤、

       家紋 州の字崩、州の文字」と。

       又「弥兵衛信武−弥一兵衛信安」というのもあり。家紋 割菱、抱牡丹。

10,遠江の原氏 当国佐野郡に原郷あり、この地名を名乗りしもあらん。

       掛川志稿に「新編纂図に、左大臣武智麻呂公の末葉、藤原為憲 遠江守

       となる。これを原氏の元祖とす。また、為憲 工藤大夫と号す。即ち、

       工藤の祖なり。その五世の孫を原権守師清と云う。その子 遠江権守

       清仲、その子 原四郎清行、その子 原三郎清益とあり。云々。当郡

       本郷城は、一に中之谷城とも云い、本郷村にありて、原氏十代の居城

       なり。左衛門尉(原武蔵守)永政に至り、今川義忠と数度戦い、永政

       敗北し、文明十五年春没す。裔孫 小澤八郎英永、明応年中 民間に降る」と。

11,甲斐の原氏 当国の名族にして、一蓮寺過去帳に「応安七年十二月六日、

       持阿(原氏)。長禄二年十二月二十八日、道阿( 右衛門四郎)」とあり。

       下って、原加賀守昌俊あり、一條庄 高畠の人なり。武田信虎、晴信に仕う。

       又、羽尾記に「原監物、原隼人」あり、一説にこの氏、清和源氏土岐光行の

後なりと云う。家紋 桔梗。

       又、原大隅守虎吉あり、中山広厳院 天文十二年八月八日寄進状に

       「原半右衛門虎吉(花押)」と。江戸幕臣に大隅守の裔あり。ェ政系譜に

       「大隅守胤蔵(武田没落後、家康に仕う、法名 日敬)−胤従−胤虎

       −正胤、家紋 九曜、角切重押器、四菱」と。

12,甲州美濃守流 Qの後なり、後裔 江戸幕府に仕う。ェ政系譜に

  「虎種(虎胤)の四男重国(重胤)−亀蔵重久(親胤)・家康、駿河大納言忠長に仕え 代官−勘右衛門重国

  (親冶)−勘右衛門親詮−三郎兵衛親貞−六左衛門親克」と。家紋 四菱、丸に横木瓜、十曜。

13,藤原南家工藤氏族 駿河国発祥の名族にして、駿河郡原村より起こる。

       尊卑分脈に「入江馬允維清−工藤大夫維仲−師清(原権守)−清仲(遠江

       権守)−清行(原三郎)−清益」と。

       紋譜帳に「原三郎清益の紋は、横木瓜」と。

14,伊豆の原氏 賀茂郡白浜に白浜明神あり。当国の名社にして、神主は、原氏、

禰宜は 三十六戸ありと。

15,相模の原氏 多くは13項の後なり。後裔、武蔵国橘樹郡にあり。新編

       風土記に「上小田中村の庄屋。彼の先祖は原氏にて、権守藤原師清の

       十四代の後胤、原 清実の父 遠江守光重と共に、鎌倉の足利持氏に仕え

       戦功あり。清実 初めて当国に移り住し、その子 清孝始めて吉良左京亮

       成高に仕え、世田谷に住し、応仁元年卒せり。その子 清氏も吉良頼康

       に仕えて忠勤をはげませり。その子 若狭守光盛も頼康及び氏朝に仕え

       稲毛に住す。この人は応永年中卒せり。その子 勝光、天文年中 初めて

       この地に来たりて、住居をなし、その地を大ヶ谷戸と名づけたり。永禄

       の頃 勝光、吉良家の拝借奉行を承り、百貫目の地を領せしとぞ。天正

       年中に至り、吉良氏も没落せしかば、自ずから民間に下れり。勝光

       経済のことに長じければ、年老し後、いよいよ旧家として世に聞こえし、

       富饒の民となれり。その頃 五十間に百間の蔵屋敷を構え、その廻りに

       は四五間の溝を掘りまわせり。今も溝の後 確かに有りと、享保の頃の

       物にしるせり。この人 村内に宝蔵寺を建立し、また、神社など数多

       勧請す。その子 重信も富民にして、田地三百石を持ちたり。明応三年

       正月二十八日、八十六歳にて死す。その三男 重勝、家を継ぎ七十八歳

       にて、延宝八年正月五日死す。その三男 重利継ぐ、その後 子孫連綿

       たり。この他 原氏の分地といえるもの数多ありて、この村にも全て

       二十七家と云えり」と。

16,武蔵の原氏 − − 新編風土記に「原氏(一ッ木村)、先祖 勘解由良房は、武田家人

原隼人正の子孫 。甲州没落の後、久しく当郡松山に住す。文禄年中、当所に土着して

民間に下る。その後 良房、慶長六年、七十歳にて卒す。その子 右馬祐良清は、

ェ永十六年、六十五歳にて卒す。墳墓、龍ヶ谷にあり、この正統は、即ち、徳太郎なり。

良清の次男 原五郎兵衛良親の子孫は、今、名主 作兵衛これなり」とあり。

又、入間郡にあり、小田原役帳に「原上総介の知行入西長岡 六貫三百八十七文」とあり。

又、深谷記、上杉御譜代に原市之助あり。

又、幕末明治、児玉郡の渡瀬の人に原善三郎あり、実業家として名あり。

17,上総の原氏 当国山辺郡小西村の妙高山正法寺は、長禄二年、僧 日意の開基にして、

当時の郷主 原肥前入道行朝、深く日意を崇拝し、居館を仏刹とするに始まる。

梵鐘銘に「長禄二年、原 野能登守平胤継(肥前入道行朝)、阿弥陀堂を廃して、

法華堂となす」とあり。この原氏は、千葉家臣にして、下記と同族なり。

18,桓武平氏千葉氏族 下総国の大族にして、匝瑳郡原郷より起こる。

      千葉系図に、「下総権介 常兼(千葉大夫)の弟 常房(鴨根三郎)−常余(原 四郎)」と。

       又、一説に「千葉時胤の二男 高胤の後」とす。

       又、「千葉介胤宗−貞胤−氏胤−氏満−常光(原二郎)」とあり。

19,秀郷流藤原姓結城氏族 − − 下総国結城郡の原村より起る。結城系図に

「中務大輔満広の子 光義(原三郎、結城戦場に於いて討死)、弟 朝助(駿河守、同上討死)」とあり。

結城秀康給帳に「二千四百石 御番頭 原縫殿助、千七十石 原七右衛門、七百石 原隼人佐、

四百石 原平左衛門、二百石 京都買物方 原吉兵衛」とあり。

20,水戸藩の原氏 − − 武田家臣 原昌俊の裔 昌術は、医を以って水戸藩に仕う。その男 昌克、

南陽と号す。その子 昌綏。

21,奥州の原氏 − − 天正の頃、白川郡の東館に原兵部少輔あり、佐竹氏に属す。

又、信夫郡瀬の上村の医師に原有隣あり、明治時代に名あり。その子 龍太、忠雄、共に名あり。

又、明治の文人に原抱一庵あり。

又、南部氏配下に原氏あり、旧指録に「光行 入国の際、田子より来りて随従す」と云い、

系図には「甲州より随従す」とあり。

又、盛岡藩士、原敬は、明治になり総理大臣となる、平民宰相と呼ばれる。

又、平藩士 新井勇輔の長男 良作は、原坦山と云い、仏教界に名あり。

22,桓武平氏三浦氏族 − − 岩代国耶麻郡の西原村より起る。北田次郎広盛の後なり。

新編会津風土記、北田村館跡條に「耶磨郡半在家村に旧家 原平次郎あり。この村の

肝煎にして、佐原義連の孫 北田次郎広盛の後胤なりとぞ。

広盛の子孫 応永中まで河沼郡北田に住せしが、同十七年、新宮氏の為に滅ぼされ、

その氏族、小市郎盛連、幼少にして横田の山内氏に因れり。長ずるに及んで、山内の臣

岩橋某に養われ、岩橋と改む。その孫 太郎左衛門盛国、山内氏勝の将として、伊達政宗を

防ぎて功あり。葦名義広、本村にて三百貫文の地を与え、それより本村の西原と云う所に住し、

原氏と改む。天正十七年、葦名氏滅びて、盛國羽州に移り、蒲生氏の封に就きて後、再び

この地に帰り、村長となり、今に至るまで十一代なりと云う」とあり。

23,越後の原氏 古志郡に原村あり。この地名を名乗りしもあらん。

24,諏訪氏族 − − 信濃国諏訪の名族にして、諏訪系図に

「盛重(大祝、安芸権守)−敦頼(原七郎)−時重、弟 敦重、敦継」とあり。

25,諏訪平姓原氏 − − これは 甲斐国の原氏にして、円見山邸は、武田の将 原下総守の邸宅と云う。

諏訪志料に「原氏、平姓なり。千葉介常胤の裔 数代の後、千葉高胤、始めて原を称す。

また数世にして原胤房あり、その男 胤道、尚 幼し、よりて 原肥前守胤継(胤房の従兄弟)、

後見して、小弓城を守ると雖も、源義明の為に城 陥る。次男 能登守友胤、甲州に来り、

武田家に仕う。男 美濃守虎胤、信玄に仕え、武功抜群なり。その妾腹の男 市左衛門、

故あって浪人し、天文二十一年、当郡の下金子に来る」とあり。

26,佐久の原氏 − − 原氏の先祖書きに「生国 信濃、高祖父 原庄左衛門、佐久郡岩村田に居住仕候節、

権現様に属して、知行三十八貫を上州 中栗巣村にて下し置かれ候。曽祖父 原太兵衛云々、

元禄十三年、富士見番 原庄右衛門」とあり。

ェ政系譜は、清和源氏の支流に収め「孫兵衛(岩村田 大炊介清季に仕え、後、武田信玄に仕う)

−庄左衛門長正(北條氏直、後、家康に仕う)−太兵衛正重−太兵衛正久。家紋、九曜」とあり。

27,小県の原氏− −仁科大和守盛国は原安芸守義隆の婿となり、終に仁科の家督を継ぎ、

永享年中より森に住すと云う。

       又、真砂に「文応元年、原織部正源義元 居り、往古より原氏 代々これ(森の城)に拠る」とあり。

28,伊那の原氏 − − 当地方の名族にして、南信史料に「原氏の館跡は波合村にあり。関東の千葉氏の庶流、

原胤勝、承久三年、始めて下條家に属して、この処を領す。その子 胤重、松枝合戦に討ち死にし、

その子 胤直、その子 胤房、根羽に戦死、その子 胤続、また南条にて討ち死に。胤春、胤行、

胤吉、胤光、胤秋、胤定(天正の頃)、胤成。一族 民間に降る」とあり。

29,若狭の原氏 − − 守護職次第に「陸奥守重時朝臣、六波羅北殿、ェ喜三年より御拝領、御代官

原小次郎兵衛尉広家」とあり。

30,出雲の原氏 − − 当国松江の原心猛は、高野山に登り、大僧正になる。

31,丹波の原氏 −当国氷上郡に原荘あり、この地名を名乗りしもあらん。

       又、丹波志に「原氏。子孫 黒井村、東町、町並に住す、香具屋重兵衛と云う。

先祖摂津より来たり、古城主赤井氏の客分たり、但し、天正年中より。天正八年

八月十三日討死」とあり。

32,日下部姓 − − 但馬の名族にして、日下部系図に

「朝来山本領主家貞(天永元年死)−家次(日下大夫)−家経(三郎大夫)−家綱−雅家、

弟 家久(原三郎)、弟 家時(原二郎)、弟 家保(原五郎)−家信−家孝」とあり。

又、太田文の養父郡條に「八幡領 亀別宮、十二町六反、地頭 原七郎入道、注文を

出さざるの間、古帳に任せて これを注進す」とあり。

33,用瀬氏族− − 因幡国の名族にして、智頭郡の原村より起る。用瀬備前守の子孫、原大明神を祖神とすと云う。

34,大蔵姓 − − 筑前の名族にして、原田系図に「大蔵春実−春近(原の祖)」とあり。

又、鎮西要略に「原田並びにその一族 原等、大内家に属す」とあり。

又、黒田家臣に原弥左衛門種良あり、伝え云う「初名は 宝珠山左近太夫と号す。

大蔵姓にして原田の一族也。その先祖、功により尊氏より筑前上座郡の内、及び豊前の内にて

領地を賜いしより、代々 筑前上座郡宝珠山に住せり。その父に至り、天正年中、豊前香春岳の

城に移り、大友氏に属して 数々軍功あり。孝高の豊前入国の時、早く従う。秀吉より、

種良に命じて 孝高に従わしめ、印書を給う。孝高、その姓名の甚だ長きをいといて、

原弥左衛門と称せしむ。城井責めの時は、神楽山の城を守って多く敵を誅せり。筑前入国の後、

二千石の采地を賜う。忠之の代、栗山大膳流刑の後、上座郡左右良の里に置きて、隣国の押さえとす。

後、伊予と改む。ェ永十六年十月二十六日死す。行年 八十三歳」と。

35,佐々木氏族 − − 出雲の原氏にして、中興系図に「原。宇多源姓、佐々木義清の末流」とあり。

36,美作の原氏 − − 当国真庭郡高田山上村に原氏あり、伝え云う「堀権大夫景季の末裔 原左太衛門(

森忠政の家臣)の孫 宗左衛門(百石)、主人 除封の後、篠崎四郎右衛門の養子となり、

原吉右衛門正明と称す」と。

又、苫田郡の原より起る者あり、小谷又三郎の裔と云う。

又、勝北郡真加部城は 新免氏の族なる原玄蕃 これを守ると云う。東作志 小吉野庄 真加部村條に

「真加部の城は 新免河内守、原玄蕃(新免伊賀の家臣)、舟曳越中守をして守らしむ。明応七年、

原與次郎、軍勢を引率し 播州より鴨坂峠に押し寄せて陣を取り、吉野郡竹山城の領内に放火し、

狼藉絶える事なし。これによって、竹山城より(城主)新免伊賀守、鴨坂の下なる宮本縄手に

出張して相戦う。城方なる玉井市之助、大河原彦四郎、岡野浄慶、舟曳弥太郎、同玉蔵坊、

平田無二、新免修理之助、同若狭守、同丹後守等、一番に槍を入れ、矢を放つ。玉井、舟曳、岡野、

新免丹後守、討死す。かくて 原の旗本 大崩れになり播磨の方へ落ち行く所を鈴木主殿助、

原與次郎と引組み、すでに主殿助、下になりて危き所に、同苗小七郎 掛け合わせ、原與次郎を

引除けて 首を取る。ここに於いて原勢 悉く潰乱す」とあり。

37,備中の原氏 太平記巻二十九に原八郎左衛門あり、陶山氏配下の将なり。

38,安芸の原氏 − − 竹原荘の名族にして、芸藩通志 豊田郡條に

「吉名村 原氏。原與三右衛門正房を祖とす。正房は、小早川隆景に従いて 朝鮮の役に赴き

戦功あり。帰朝の後、高禄を賜る。隆景の没後 浪人して、賀茂郡新庄村に至り、はじめて

農となる。今の兵右衛門より五代の祖 文三郎、当村に来住す」とあり。

又、安西軍策に「原弥四郎、原宗兵衛」等の名あり。

39,紀伊の原氏 − − 日高郡の名族にあり。続風土記、三百瀬村 旧家原氏條に

「祖は 山城の人、原左京、右京、七郎太夫と云う三人の兄弟あり。本国の由良に来り住す。

左京の子 原主馬大夫、足利氏に仕え京師に戦死す。弟 道久、三百瀬に住して 玉置氏に仕う。

孫 原用助、賊の為に殺され、その三子 九左衛門、左衛門、清左衛門あり。九左衛門、左衛門は

玉置を以って氏とし、九左衛門は 安家に仕官す。左衛門は 藤堂家に仕官す。清左衛門、

百姓となり、記道の神職、庄屋を勤む」とあり。

又、小家村の地士に原弥之右衛門あり。

又、名草郡の五箇庄侍し十一家の一に原礒三郎、牟婁郡口和源村の地士に原徳左衛門等あり。

又、武田勝頼の家臣 原小源太あり。

40,清和源氏小笠原氏族 阿波の名族にして、故城記 上郡美馬三好郡分に

       「原殿。小笠原、源氏、紋 松皮二並」とあり。

41,伊予 土佐の原氏 − − 安西軍策に「伊予の久留島の朗等 原太郎左衛門」とあり。

又、土佐の儒者に原 琢左衛門腧(大矩)あり、鳳山と号す。

42,讃岐の原氏 − − 当国の幡羅郷より起る。全讃史に「幡羅城は 原村にあり、原采女ここに居る」とあり。

43,豊後の原氏− − 一本大友系図に「野津五郎頼宗、庶子の次第、原 云々」とあり。

又、安西軍策に原入道重忍の名あり。

又、大友宗麟の家臣 原大隈は、怪力を以って名あり。

44,筑後の原氏 高良山、天文二十年の山本郡検地帳に原大和守を載す。

       又、草野家臣に原道頓あり。

       又、田中家臣知行割帳に「二百九十石、原平太夫。百石、原太兵衛」とあり。

       下って幕末、久留米藩 原道太、勤王家として名あり、贈 従四位。

45,肥前の原氏 − − 当国杵島郡山内町、唐津市、武雄市、佐賀郡大和町、東松浦郡肥前町、

木郡に原の地名あり。これらの地より起りしもあらん。

有馬氏の族にありて、鎮西要略の天文十三年條に「嬉野、原、深町 云々、有馬に属す」とあり。

又、肥陽軍記に「天正四年、横沢の城主 深町美作守は 防ぎかねて、有馬に落ち行き、

塩田城主も龍造寺隆信に降参す、城主 原十郎五郎也。嬉野、吉田も参りぬ」とあり。

又、大村藩の原氏は「藤原姓、原田種直の末流 原一閑斎の後裔」と云う。

又、神近加賀の裔と云う原氏あり。

又、江戸時代の儒者に原五大夫五(十岳)あり、花祭と号す。

又、幕末明治に原忠順あり、鍋島支藩 鹿島藩士なり、藩政改革を行い、明治になり 元藩主

鍋島直彬に随行してアメリカに留学、『米政撮要』を著わす。功多く、貴族議員となる。

46,菊池氏族 − − 肥後の名族にして、菊池系図に「経宗−赤星経俊−経親−経能(原四郎)」とあり。

又、一本に「経宗−経継−経能(原四郎)」と。

又、菊池風土記に「経宗−経俊(七郎、赤星の祖)、弟 経継(佐野三郎)−経能(原四郎)」とあり。

47,藤原南家相良氏族− −相良系図に「相良三郎長頼−九郎頼員(原氏祖)」とあり。

       肥後の名族なり。

48,他 


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