浜   田(ハマダ)

解説

相模国高座郡に驛家郷あり、延喜式の浜田駅に当たる。

その他 摂津国に浜田庄、又 諸国にこの地名ありて数流の

氏を起こす。 

分派氏族

 

1,秀郷流藤原姓田原氏族 伊勢の名族にして、三重郡濱田村より起こる。

       田原忠広の後なり。美作守忠秀を祖とし、その子 紀伊守藤綱、その子

       遠江守元綱、その子 重綱なり。四日市建福寺に位牌あり。重綱 天正

       十二年五月、加賀野井合戦に死す。その居城 濱田城は、名勝志に

       「濱田村字堀の内田圃中の小丘たり。老樹繁茂、土壘の址僅かに存す。

       中央に小社を置く。応永の頃、本郡赤堀城主 田原景信の三男 忠秀、

       城を築きて歴世ここに居る。この時 今の四日市駅を開き、街道を改め

       造りしと云う。濱田殿と称して北畠氏に属す。孫 元綱に至り、織田

       信長に攻められ天正三年六月、元綱自殺し、男 重綱など一族逃亡して

       城落ちる。或は云う、天正十二年五月、美濃加賀井の役に戦死すと。

       十二年長島一揆の時、蒲生氏郷ここに陣す。

       元綱の墓碑は、鈴鹿郡山本村字本郷垣内にあり」と。

2,摂津の浜田氏 武庫郡濱田荘より起こる。住吉郡(百済郡)南田辺村の人、

       浜田五兵衛は、ェ文三年、松原新田を開く。

3,藤原姓 紀伊の名族にして、続風土記、相賀荘古本村旧家條に「浜田氏、

       藤原姓にて、祖は石見国濱田の人 隼人国広と云う。嫡子 吉祥房国次、

       天正年中、堀内安房守の家老となり、堀内家滅亡より浪人となり、

       古本村に引移る。南龍公の時、吉祥房の子 又十郎、その子 濱田長左衛

       門にこの辺在方役儀を命ぜられ、その後 代々地士となる」と。

4,藤原姓菊池氏族 − − 肥前の名族にして、福田系図に「観応二年、肥前国 浜田四郎跡

田地三十町地頭職の事 云々」とあり。

子孫 大村藩に存し、士系録に「浜田。藤原、菊池家の族」とあり。

5,桓武平氏 − − 薩摩の名族にして、平判官良宗の裔と云う。始め良宗、姶良庄を開き、

一族 大姶良、獅子目(宍目)、横山、浜田の諸氏に分かれる。

6,清和源氏 − − ェ政系譜に

「三次郎恒之−三之丞恒久、家紋、丸に田文字、丸に橘」とあり。

7,桓武平氏− 陸前国気仙郡浜田村より起こる。葛西氏の一族なれど、葛西実記に

       「承久の乱後、千葉介頼胤、葛西家に預けらる。その五男 浜田五郎なり」とあり。

8,伊達家臣 − − 上記の族ならん。陸前国刈田郡湯原村 湯原八幡宮棟札に

「明応九年、伊達十三世尚宗君、修造する所。天文五年、十四世稙宗君、世子晴宗君 再興、

家臣 浜田伊豆宗景、監造云々」とあり。

又、伊達政宗の家臣に浜田治部あり、関が原の役に功あり、白石城を守る。

9,羽後の浜田氏 山本郡浜田村より起こる。永慶軍記に浜田久左衛門 の名あり。

10,他 


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