八   幡(ハチマン・ハツマ)

解説

諸国に八幡宮あり、そのゆかりにより八幡を名乗る者あり、

八幡宮の鎮座により地名が出来、その地名を以って氏とする者あり。

尚、ハチマンの名をはばかって「ヤハタ」の地名、名字としたものも

あるでしょう。

国土基本地図にこの地名75ヶ所あり。

「ヤハタ」「ヤワタ」の地名は102ヶ所あり。

尚、静岡県田方郡中伊豆町の八幡は「ハツマ」と読む。

 

1、清和源氏 源為義の子 為成、八幡七郎と云う。尊卑分脈に

     「為成。七郎、住 八幡、号す 八幡七郎、母 賀茂神主成宗の娘」とあり。

     又、中興系図に「八幡、清和、為義の男 七郎為成これを称す」とあり。

     尚、有名なのは八幡太郎義家だが、これは あくまでも名字は源なり。

2、清和源氏細川流 清和源氏系図に

     「細川阿波守和氏−相模守清氏−昌氏(八幡六郎)、弟 ? ?(八幡八郎)」とあり。

3、伊豆の八幡氏 当国田方郡大見郷八幡より起る。曽我物語に八幡三郎あり、河津三郎祐泰を

     射殺す。八幡三郎行氏の男を経氏と云う。

4、文屋姓 駿河の名族にして、文屋氏 後裔八幡左衛門大夫親高より出づ。駿府内外寺社記抄に

     「八幡宮。御朱印 二百五十石、神主 八幡主膳」とあり。

5、伊達氏族 岩代国伊達郡亀岡八幡より起こる。伊達世事考に

     「当家 准一家班に八幡氏あり、その家伝に云う、先祖、我が元祖 念西公より分る、

     嫡家なりと。これ妄説なり。或いは それ支流か、即ち、未だ知るべからず。又、

     伝え云う、この家 世々 公室の為、八幡宮に代参す。尚宗公の時に至りて、紀伊 宗永

     幼児なり、故に 小梁川氏、始めて代参となる。宗永の子を宗景と云い、その孫裔 天和元年

     嗣絶え、家、終に亡ぶ」とあり。

6、藤原姓伊澤氏族 陸前国宮城郡八幡庄より起こる。封内記に

     「八幡村 八幡宮は、何時何人が勧請せしか詳ならず。往古 この社は 末松山辺にあり云々

     古鐘あり、銘に『謹んで鐘を鋳奉る、奥州末松山八幡宮、大檀那介平景綱、大工 藤原弘光、

     大工 加当( ?)安吉、永仁七年二月二日』と載せ、又、梁上の古牒に『大旦那 日本国主

     大将軍 大行事、陸奥介藤原景宗、同 藤原宗景、八幡太郎、長禄三年云々』と。伝え云う、

     宗景は、留守殿なり。景宗、及び鐘銘に云う所の景綱は、八幡兵庫頭( 不伝)なる者の

     先祖なりと。今 按ずるに景宗は、伊澤左近将監家景の十六世の孫にして 留守相模守と称す  

     実は当家 第十三世 香山君の二男なり。留守家譜を考えるに、景宗は、家景十五世の孫

     藤王丸の家を継ぐ。藤王丸は、明徳中 十歳にして没す。景宗は、天文二十年五月に卒す。

     天文二十年より長禄三年に至る 九十五年、而して明徳改元 応永元年に至って、遡り

     考えれば、即ち、百六十年なり。その年数の悠久、家譜の記す所、疑うべし。梁上の古牒の

     陸奥介なる者も疑うべし。村民が伝える所、平景綱を以って八幡家の先祖となす、然るに

     梁上の文は、八幡太郎藤原宗景と記せば八幡家も また藤原氏にして、平氏に非ず、恐らく

     別人か。」とあり。

7、他


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